二度あることは三度ある



 次に目覚めたとき、保健室の中は少しかげっていた。そろそろ部活も終わる頃だろうか。身を起こすと蔵王の姿はそばになく、代わりに間仕切りのカーテンの向こうから蔵王と誰かの声が聞こえた。
「皆は先に帰りましたけど、立はどうしますか」
「先生まだ戻んないみたいだし、一応待ってるよ。鞄、ありがとな」
「君ならそう言うと思ってましたよ。彼女、まだ寝てるんですか?」
 たぶん、蔵王の会話の相手は鳴子くんだろう。彼には朝もお世話になったし、放課後も情けないところばかり見せてしまった。私が倒れたことまで知っているらしい。もしかしたら、蔵王と一緒に私を見つけてくれたのかもしれない。
 直接お礼を言いたいけれど、このタイミングで出ていくのは少々気まずい。話題が変わるまで待ってみようか、それとも長話なんてせずに鳴子くんは帰ってしまうだろうか。逡巡していると、ぽすんとベッドの上になにかが飛び乗ってきた。
 ……ピンク色のウォンバットだ。
「まだこちらにいらっしゃったんですね。気分はいかがですか?」
 地球の自然界ではあまり見かけない鮮やかな色をした、人語を解する動物。
 思わず自分の手の甲をつねってみれば、当然のように痛みが走った。……夢じゃ、ない。ということはつまり、眠る前のあれも――。
 一度は見ているからか、それとも蔵王の知り合い(?)だからか、恐怖や気味の悪さのようなものは感じなかった。よくわからないけど、悪いものではないのだと思う。
 とりあえず、心配してもらっているのに何も言わないのはよくないだろう。「元気です」と答えると、ウォンバットは「それはよかった」と眉(のように見える)を下げて笑顔らしい表情を浮かべた。人語を解するばかりか表情まで豊からしい。
「ところで、」そう切り出したウォンバットの声は、すぐさま別の声に遮られた。
「ちょっと待った!」
 カーテンが勢いよく開かれる。飛び込んで来たのは蔵王だ。遅れて鳴子くんが顔を出す。
「またお前! なにやってんだよ!」
「先ほどの件を検討しまして、委員会の許可が降りましたので」
「なんですかそれ。立、なんの話です?」
「俺だって知らねーよ」
「もちろん、追加戦士です!」
 高らかに宣言して、ウォンバットが短い前足を上へ突き出す。その瞬間、オレンジ色の光がほとばしった。
「な、なに!?」
 眩しさにぎゅっと目閉じる。光は一瞬だった。ちかちかする目を瞬かせていると、蔵王があっと声を上げる。鳴子くんもなにかに気付いた様子だ。二人の視線は、私の左手首に注がれていた。
「……なに、これ」
 そこにあったのは、蔵王の手首にあったものと同じブレスレットだった。ハートの部分が色違いになっている。蔵王のブレスレットはピンクだったけど、私の手首にはまっているものはオレンジ色のハートだ。
「それは愛の王位継承者だけが身につけることを許される、ラブレスレットです!」
「らぶ……えっ、えっ?」
「お前、なに勝手に……!」
「愛の王位継承者は五人と決まってるって、この前言ってませんでしたか?」
「味方は多ければ多いほどいいに決まってるのちゅばちゅば!」
「まったく、都合がいいですね」
 落ち着き払った鳴子くんを見るに、彼も事情を知っているようだ。前にウォンバットが言っていた五人のメンバーのうちの一人なのかもしれない。
「あの、鳴子くんも、もしかして……」
 おそるおそるたずねると、鳴子くんはため息混じりに左の手首を見せてくれた。黄色のハートがあしらわれたブレスレットがはまっている。それが答えだった。
 帰りの車の中、兄は一言も口を利かなかった。怒っているのか、呆れているのか、失望しているのか、……それとも、その全てだろうか。なにか言うべきだとわかっているのに、いざ口を開こうとすると言葉が喉の奥につまってしまったように出てこない。膝の上に重ねた両手をじっと見つめたまま、口を開いては閉じてを繰り返している。そうしていつの間にか、兄の運転する車は家の玄関先に到着していた。
「ここで悪いけど降りられるか? まだ仕事が残っててな、すぐ学校に戻らないといけないんだ」
 いつも通りの兄の声にほっとすると同時に、ずしりと胃が重たくなるような心地がする。今日は兄にもたくさん迷惑をかけてしまった。「ごめんなさい」と絞り出した声はあまりにも小さくて、助手席と運転席という近い距離ですら兄に届いたかどうかわからない。数拍の沈黙の後で、兄は短いため息を吐き出しながら私の前髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「なんて顔してるんだ、。まさか自分のせいで、とか思ってるのか? 今日は元々やることが多かったからな。お前が気にすることじゃないよ」
「でも……」
「蔵王たちから話は聞いてる。朝も具合が悪かったんだろ? 気付けなくてごめんな。俺はお前の兄貴で、それに今日はお前たち生徒を預かる立場だったのに。謝るなら俺の方だ。ごめん」
「違う、お兄ちゃんのせいじゃないよ。私がちゃんと、言わなかったから……」
「だから、気にしなくていいって……まあ、昔から変なとこでくよくよするもんな、は。申し訳ないって思うなら、しっかり休んではやく元気になってくれよ。週末の稽古は控えるように親父に言ってあるし、眉女高の顧問にも土日は休むって連絡してあるから」
「そんなに休まなくても平気だよ、もう元気だし」
 明日からだって練習に参加できる。そう続けようとして、指先でぱちんと額を弾かれた。
「あのなあ、心技体って言うだろ? 体だけ休めたって意味ないんだ。お前、部活がないときだって家で稽古してばっかりじゃないか。たまには母さんと買い物でも行って、気分転換してこい。最近またお前が構ってくれないって、母さん拗ねてたぞ」
「お母さんが?」
 びっくりして聞き返すと、兄は「意外だろ?」と笑った。意外も意外だ、あの母が拗ねるところなんて、にわかに想像できない。いつも穏やかに笑っているような人だ。叱るときだってそう声を荒げたりはせずに、静かに説き伏せるような人。拗ねるなんて子供じみた感情が母にあるなんて、どうにも信じられない。驚く私をよそに、兄は再び車のエンジンをかけた。
「それじゃ、今日は早く寝ろよ。ゆっくり風呂にでも入れば、またぐっすり眠れるさ」
「うん。……ありがとう」
 兄の車を見送ってから家に入れば、夕飯のいい匂いが廊下まで届いていた。支度を手伝いがてら、休日の予定を母にうかがってみよう。ちょうど数日前、友達に聞いて行ってみたいと思っていたお店があるのだ。

 湯船でぼーっとしていると、今日起こったあらゆることが、取るに足らない小さなことに思えてくるから不思議だった。疲れも悩みもさっぱり洗い流してくれるお風呂は、なんとも偉大である。散々寝たのにまたすぐ眠るなんて無理だと思っていたけど、兄の助言通り今夜もしっかり眠れそうだ。なんならすでにうとうとしかけているくらいだったけれど、さすがにここで寝ては体調を悪化させるだけだろう。眠気覚ましに湯船のお湯で顔をすすぐと、いくらか睡魔は遠のいた。
 その代わりに、目をそらしていた悩みが再び首をもたげる。否応なしに目に入るのは、高校生の私がつけるにはいささか可愛すぎるデザインのブレスレットだ。お湯と浴室の明かりを受けてきらきらと輝いているそれは、どういう仕組みかわからないがいくら試しても外れなかった。蔵王や鳴子くんがこのファンシーすぎるブレスレットをそのままにしたことにも納得がいった。
 眉女高の校則はさほど厳しくないとはいえ、さすがにこんなものをつけていくのはちょっと抵抗がある。というか、あまり趣味ではないので気恥ずかしい思いもあった。鳴子くんの苦虫を噛み潰したような表情を思い返せば、私の気恥ずかしさなんて取るに足らないものかもしれないが。
 蔵王はきっと、あまり気にしないのだろう。俺ってなんでも似合うな、なんて自信たっぷりに笑いそうなくらいだ。中学の頃には、女の子にもらったという可愛いデザインのキーホルダーを堂々と鞄につけていたこともある。その女の子は二人だけのお揃いのつもりだったのに、蔵王を気にしている女の子たちがこぞって真似したのでちょっとした揉めごとにまで発展したそうだ。「女の子は好きだけど、いっぱい集まると怖い」と、この世の真理の一つを解き明かしたような顔で言う蔵王がおかしくって、しばらく笑い転げたのが懐かしい。
 そんな蔵王だから、女好きを公言しながら男子校への進学を決めたのも、さほど不思議に思わなかった。私は眉女高へ行くことを決めていたし、学校こそ違っても最寄り駅は同じだから、会えることもあるだろうと考えていた。
 実際に高校生活が始まってみれば、思いのほかお互いの生活が噛み合わず、互いの姿を見かけることもなかったのだけど。そうして、今日の再会だ。
 ――友達なんだしフツーだろ?
 友達。その言葉を、その関係を、今まで一度だって疑ったことはなかったはずだ。私と蔵王が友達である。それは絶対的に、完璧に、揺るぎない事実だった。なのに今、私の中でその二文字が揺らごうとしている。
 ひどいことを言ってしまったのに、まだ友達と言ってくれる蔵王が嬉しかった。その気持ちに応えたいと思う。私は蔵王と、友達でいたい。そのはずなのに、心のどこかはきりきりと音を立てて締め付けられるような心地がするのだ。蔵王と私と、それぞれが抱える感情が違うものなのだと、私はもう知ってしまったから。
 もう一度、お湯を顔にかける。ぽたぽたと水滴が肌を滑り落ち、入浴剤で白く濁った水面を揺らした。この想いもお湯のように洗い流せたら、どんなによかったか。そう願わずにはいられなかった。

 お風呂からあがると、スマホにいくつかメッセージが届いていた。空手部の二年生のグループからだ。みんなにも心配をかけてしまったらしい。早々に布団に潜り込みながらメッセージ読んでいると、その間にも恐ろしい速さでいくつもメッセージやスタンプが流れてくる。相変わらずみんなして打ち込むのが速い。いつもは打つのが追いつかずにスタンプを多用しがちだけど、今回ばかりは「心配かけてごめん」も「ありがとう」も自分の言葉で伝えた。
 私の無事を確認したあとは、今日の練習の話に流れていった。といってもほとんどが眉難の誰がかっこよかったとか、そういった内容だ。意外にも人気が高いのがうちの兄だったが、すかさず巴映が「彼女持ちだってよ」と投稿すると、悲しんだり残念がる様子のスタンプが滝のように流れていく。身内だからあまりピンと来ないけれど、若い教師というのはそれだけでも憧れの対象になるのだろうか。なんにせよ兄が褒められているのは素直に嬉しい。あとで本人にも教えてあげよう。
 流れの速い雑談を眺めているうち、だんだんと眠気がこみ上げてくる。今日は早めに休むと告げると、一斉におやすみが返ってきた。一通り確認してからアプリを閉じ、部屋の電灯のリモコンに手を伸ばす。
 その時だった。
「あなたがバトラヴァ・アンバーですわね!」
 耳慣れない可愛らしい声とともに、オレンジ色の塊が天井から降ってくる。私の布団の上、ちょうど太もものあたりに落ちてきたそれは布団の上でしばらくもがいた後、ひょこっと立ち上がった。
「え、ええ……?」
 またしても人間の言葉を操る動物だった。そして自然界ではそう見ない鮮やかな色。ウォンバットとは違う種類のようだけど、相変わらず見たことのない、哺乳類らしき姿だ。ネズミとたぬきの間のような顔立ちで、すこし尖った耳と先細りする太いしっぽを持っている。背中のあたりには濃い色でハートの模様が入っていた。おそらく四足歩行するだろう形なのに、器用にも二足で立っている。
 その動物は私の顔をじっと見つめると、なにか納得したように大きく頷いた。
「いきなり追加メンバーだなんて言い出すんですもの、すっごく驚きましたわ。でも、悪くない発想だと思います。ええ、ええ、それにあの衣装だって、女の子が着たほうがずっと愛らしいでしょう。わたくし、これでも地球のアニメが大好きなんですのよ!」
 なんだかよくわからないけど、かなり濃いのが来た。
 オレンジ色の動物は、いかに自分が地球という星を大切に思っているか、地球の生み出したアニメという文化が素晴らしいかをとうとうと語った。愛すべき地球のために我々になにができるか……といったあたりから駅前で見かける宗教勧誘めいてきて半分くらい頭をすり抜けていったが、あちらも自分の世界に入ってしまっているので、私の反応がなくても次々に話題を広げて熱弁をふるい続けている。アイドルの話を始めたときの巴映にそっくりだ。こちらに相槌を求めないので巴映よりも楽かもしれない。
 ……このまま寝てもいいかな。
 人の長話に付き合うというのは体力がいるものだ。親しい友達ならいざしらず、いきなり降ってきた不思議動物ともなれば、疲労しきった夜に布団の中で聞くには相当の精神力と体力を消費することとなる。この不思議動物には悪いけれど、続きは夢の中で聞かせてもらうことにしよう。……正直に言えば、今この瞬間から夢であったらいいのになと思ってもいるのだが、すでにピンクのしゃべるウォンバットが存在しているのだし、多分このオレンジ色の動物も現実なのだろう。というか、これが私の想像だったら逆に嫌だ。もっと話の通じそうな子がいい。
 いや、きちんと向き合ってみればそう悪い子ではないのかもしれないけれど、しかし、今の私にその気力はこれっぽっちもないのだった。気力体力その他もろもろ、お風呂でいくばくか充填したはずなのに、この子の来訪によりすべて吹き飛んだ気分だ。もう今すぐ寝たい。即刻寝たい。あわよくば夢として忘れたい。ピンクのウォンバットも謎のブレスレットも、ついでに言えば蔵王と喧嘩したこともすぱっと忘れてしまいたい。いや、最後のはさすがに無理か。無理だろうな。一番忘れたいのは蔵王絡みなのだが、忘れたい事項の中で一番現実的なのがそれである。あ、ちょっとまた凹んできたな。寝よう。
 不思議動物の演説はまだ続いており、どこかわからない虚空を一心に見つめたり目を閉じて思いを馳せたりと、相変わらず私の存在は眼中にないようだった。この調子ならそっと布団を被って目を閉じても気付かれないだろう。静かに体を横たえて掛け布団を直し、電灯のリモコンを操作する。あと一時間で切れるように設定しておいた。さすがに一時間後には演説も終わっているだろう。終わっていると思いたい。
 私が寝る体勢を整えても、太ももあたりに鎮座した不思議動物は可愛らしい声を張り上げて語り続けている。そのまま目を閉じれば、愛と平和を願う不思議動物の演説がゆっくりと意識から遠のいていった。



Up:2018.05.22