未知との遭遇
学校の備品でできることといったら消毒して軟膏とガーゼを当てるくらいなので、手当にはあまり時間はかからなかった。
「ありがとな。助かったよ」
「ううん、これも保健委員の仕事だから。他に怪我は?」
「えっと、多分……うん、大丈夫」
蔵王は確かめるように体をぺたぺた触ってから、首を縦に振った。
「それにしても、手際いいな」
「空手やってると小さい怪我は日常茶飯事なんだよね。それで慣れてるだけ」
「大変だな……。お前、
だっけ。空手強いの?」
「うーん……まあ、そこそこかな」
自信をもって頷けなかったのは、先週末に味わった苦い敗戦を思い出したからだった。部活の模擬戦で勝って調子に乗っていたら、家の道場で兄にこてんぱんにやられたのだ。兄の勝ち誇る顔を思い出してはむかむかしてしょうがない。次は絶対に油断しないぞ、と幾度目かの決意をしながら、救急箱を片付けた。
「そうだ、蔵王ってクラスどこ? 席は?」
「3組。今は窓際の後ろから2番目。でも、なんで?」
「鞄、教室にあるんでしょ? 取ってくるよ」
怪我で動きが鈍っている蔵王を行かせるよりは、私が取りに行くほうがはやいだろう。その間、蔵王にはベッドにでも隠れてもらえばいい。寝ている生徒がいる保健室では、主将も大騒ぎしないはずだ。
無事に蔵王の元へ鞄を届けたら、主将たちを適当なところで足止めして蔵王を帰す。あまり話を長引かせたりするのは得意じゃないけど、いざとなったらこちらから手合わせを申し込んでみよう。この前誘われて断ったばかりだし、興味を引けるかもしれない。
「戻ってくるまで、そこのベッドで寝てて。ちゃんと頭まで布団被っとけよ。カーテンは閉めておくから」
腕を引いて立たせ、急かすように背中を押す。蔵王は抵抗こそしなかったが、怪訝そうな顔で振り向いた。
「それは助かるけどさ、でも……なんでそこまでしてくれるんだ?」
「ごめん、説明してる余裕ないんだ。とにかく、早く布団に入って。誰か来ても、静かに寝たフリしてること。わかった?」
「わ、わかった」
「そういえば、鞄ってどこに置いてる?」
「えーっと、たぶん、机の脇に掛けてあるはず……」
「机の脇ね、了解。それじゃ行ってくるよ」
強引にベッドに押し込んで、反論も聞かずにカーテンを引いた。
最後にもう一度「絶対大人しくしてろ」と念を押す。ベッドから返るくぐもった声を背に、足早に保健室を出た。
行きも帰りも主将たちと遭遇することなく、鞄は無事に回収できた。
もし途中で主将に会ったら早く帰るように促す気でいたけど、当初の予定通り進めることになりそうだ。なるべく、門から離れたところで足止めできるといいんだけど。
保健室の中は、私が出た時のまま変わったところは一つもなかった。カーテンの中に身を滑り込ませ、ベッドに身を寄せる。
「鞄、持ってきたよ」
布団の上から軽く叩くと、掛け布団がずらされて蔵王の顔が半分出てきた。私と目が合うと、ほっとしたように表情が緩む。誰か来たかと問えば、蔵王は首を横に振った。
「良かった。こっちも会ってないから、今どこにいるか分かんないんだけど……。もう当番終わる時間だから、そろそろ顔出すかも。鉢合わせたら面倒だし、まだここで待ってて」
「…………」
「蔵王?」
身を起こした蔵王は、黙ったままじっと私の顔を見つめていた。迷うように唇が開かれ、そして閉ざされる。もう一度呼びかけようとした時、蔵王は今度こそ口を開いた。
「俺が」ためらいを押し戻すように一呼吸飲み込んで。「俺が、主将の追いかけてる相手だって、気付いてるんだろ」
どう言ったものかわからず、私は押し黙ってしまった。沈黙は、肯定と同じだった。
「お前も空手部なんだよな。だったらなんで、ここまで優しくしてくれるんだよ」
「優しくないよ」
反射的に答えていた。私にそんな言葉をもらう資格はないことを、誰よりもわかっていた。
……誰かにがっかりされるのは、結構、悲しいことだ。けれど自分の都合で振り回しておきながら親切ぶるなんて、それ以上に耐えられない。
「空手部だから、だよ。主将が問題起こしたら、連帯責任になる。だから蔵王のためじゃないんだ。全部自分のためだよ」
人から優しいという評価を受けることは、たびたびあった。そうではないと言えば謙遜を褒められた。でも、本当にそうではないのだ。それがいつも気まずかった。
「主将と蔵王になにがあったかは知らないけど……空手は、武器にしちゃだめなんだ。主将とお前をこのまま会わせたら、きっと主将は間違った使い方をすると思う。あの人、あんなだけどちゃんと空手が好きな人のはずなんだよ。だから後悔するようなことはしてほしくない。それに、お前が空手を嫌いになったら、悲しい。……もう、嫌いになってるかもしれないけど」
実家が道場だからか、それとも私が女だからか。昔から、私が少しでも問題を起こせば、周囲はすぐに空手に結びつけた。私を乱暴者扱いして、空手を悪し様に言うのだ。それが悔しかった。だから絶対に、理不尽に人を傷付ける人間にだけはなるまいと思った。空手に恥じない私でいなくちゃと思った。私はただ、
「お前は空手が好きなんだな」
「……うん、大好きだよ」
蔵王の言葉が、私の心の真ん中にすとんとおさまる。空手が好き。その単純な事実が私にとってはなによりも大切で、なによりも伝えたい真実だった。
私は空手が好きなだけ。空手が好きな自分を、好きでいたいだけ。
「子供の頃からずっと、空手ばっかりでさ、もう自分の一部みたいなものなんだ。誤解されることも多いけど……多いからこそ、少しでもなくしたいんだよ」
こんなふうに、空手について誰かに話したのは初めてだった。父も兄も不言実行を信条にしている人だったし、そうした二人の姿を尊敬していた。言葉で語るよりも、自分にできることしていけばいいと思っていた。
でも、こうして語ることで得られるものもあるのだと、初めて知った。私の言葉は誰かに届く。届けたいと、伝えたいと心から願えば。
「俺、
がいなかったら、空手のこと嫌いになってたかも。お前は優しくないって言ったけど、でも、そういうとこも含めていいやつだって思ったし、……お前が好きなものなら、きっといいものなんだと思う」
なんかうまく言えねえけど。照れくさそうに付け足して、蔵王ははにかんだ。その言葉に、胸があたたかくなる。蔵王の言葉もまた、私にしっかりと届いた。
「ありがとう、蔵王」
胸を満たす喜びがそのまま笑顔になる。優しいのもいいやつなのも、絶対に蔵王のほうだと思った。
目が覚めると、見覚えのないベッドの上だった。寝起きでまだ頭がはっきりしないせいか、どうしてこんなところに寝ているのかまったく思い出せない。部室を出てからの記憶がぼんやりしてしょうがなかった。まるで頭の中にもやがかかったみたいだ。
ただ、懐かしい夢を見たことだけは瞼の裏に残っていた。
「目、覚めたのか」
声のほうを見上げて、息が止まる。……一瞬、夢の続きを見ているのかと思った。服装を見て冷静になる。高校生の蔵王だ。ついさっき、再会したばかりの。
思い描いていた再会とは、あまりにも遠かった。気付きたくなかったことばかり、思い知らされて。それで、それから……なにがあったんだっけ?
「なんで、蔵王が?」
身を起こしながら聞けば、蔵王は困ったような顔で答えた。
「たまたま、お前が倒れてるの見つけてさ。保健室に運んだんだ。さっきまで
先生もいたんだけど、無事だって確認したら部活に戻ったよ。終わるまで休んでろってさ。これ、鞄。制服はスポーツバッグの中に入ってるって」
「そう、だったんだ。……ごめん、迷惑かけて」
絞り出せたのはそれだけだった。久々に会えたのに、みっともないところばかり見せている。このまま頭まで布団を被ってしまいたかった。蔵王の顔が見られない。
「いいって、そんなの。友達なんだしフツーだろ?」
「え……」
「つーか、謝らないといけないのは俺のほうだしさ。……ごめんな」
静かなその声に視線を上げると、まっすぐこちらを見つめる蔵王と目が合う。その瞳には後悔だけが映っていた。
「お前のこと、どうでもよかったわけじゃないし、忘れてたわけでもないんだけど……なんつーか、ほんと、ごめん。お前の言うとおり、考えなしだったっつーか……」
「いいよ、もう」
「でも、」
「ほんとにいいんだ。なんか、寝たらすっきりしちゃってさ。気付いてないだけで、疲れ溜まってたのかな……。八つ当たりしちゃったみたいで、こっちこそごめん」
友達だと言ってくれた。それだけで充分な気がした。勘違いも、約束も、……うっかり開けてしまった感情も。友達だと、蔵王がまだそう思ってくれるなら、私もそれに応えたい。
蔵王はまだ気がおさまらないような顔をしていたけれど、やがて力なく笑った。
そのときだった。
「蔵王さん、先ほどの女性の様子はいかがです?」
見知らぬ声に振り向くと、ピンク色の動物がベッドの上にぴょこんと飛び乗ってきた。大きなネズミのような、耳が小さいコアラのような……なんだろう、これ。なんにせよピンク色なんて自然界にはありえない色だろう。誰かがぬいぐるみを投げ込んだとか? きょろきょろと見回しても、間仕切りのカーテンはきっちり閉められたまま。カーテンの向こうに人がいる様子もない。
「おや、なにかお探しですか?」
……その声は、明らかに、ピンク色の謎のぬいぐるみから発せられた。
「えっ、と……」
「はい?」
目の前のぬいぐるみは、こてんと首を傾げる。まるで、私の言葉を待っているように。
「ぬ、ぬいぐるみがしゃべった」
ぬいぐるみがしゃべった。ぬいぐるみがしゃべった!
まだ夢を見ているのか。それにしては妙に夢の質感がリアルすぎる。しかも昔の記憶の次に見るのがこんなファンタジーなんて、脈絡がなさすぎやしないか。
思わず蔵王に視線を送ると、「いや、その」とうろたえきった反応が返されるだけだった。それもそうだ、誰だってこんな状況じゃ冷静でいられるわけがない。……いや、それにしては態度がおかしくないか?
当のぬいぐるみと言えば、私の言葉にいたく気を損ねたようで、短い前足をたしたしと布団に打ち付けて抗議し始めた。
「ぬいぐるみじゃござんせん! 私は※☆@*¥から来た、☆%*¥※@です!」
「な、なんて……?」
「ですから@$*¥※から来た……」
「さっきとなんか違ってない?」
「とにかく! 私はぬいぐるみでもコアラでも犬でも豚でも、ましてやウォンバットでもありませんばい! 地球上に棲息する生き物とは、まったくの別物よ!」
「はあ……?」
言葉通り受け取れば地球上の生き物ではない、ということだろうか。たしかに、動いてしゃべるピンクの動物なんて地球の生き物とは思えない。けれど、だったらなんだっていうんだろう。まさか宇宙人だとか言うつもりなのか。ていうか、ウォンバットってなんだっけ。
助けを求めるように再び蔵王に目配せをして、……それはあっさり裏切られた。
蔵王は謎の生き物を抱き上げると、小声で怒鳴るという器用な調子で耳打ちし始めたのだ。
「お前なに出てきてんだよ! つーかそこ、抗議しなくていいっつーの!」
全部聞こえてるよ、ていうか蔵王、そこのピンクの毛玉とグルなのかよ!
「いいえ! 早いうちに訂正させていただかなくては、皆さんのようにウォンバットで定着してしまうのまっちょ!」
「皆さんもなにも、コイツ防衛部じゃねえし……」
「防衛部?」
つい口をはさむと、蔵王がぎょっとした表情で顔をあげた。聞こえていないと思っていたようだけど、この距離で聞くなというほうが無茶だ。
ピンクの生き物は蔵王の意を汲む気はさらさらないようで、驚きに固まっている蔵王の腕の中からあっさり抜け出した。再びベッドの上に戻ってくると、私の前にちょこんと座る。
「愛なき怪人たちからこの愛すべき星を守る地球防衛部、バトルラヴァーズの皆さんのことですよ!」
「怪人? 星を守る?……特撮ヒーローとか、そういうの? 蔵王もその、ごっこ遊びかなんかしてるわけ?」
蔵王の「してねえよ!」という叫びと、ピンクの生き物の「遊びじゃありません!」という叫びはまったくの同時だった。
「蔵王さんは、愛の王位継承者、バトラヴァ・ヴェスタ。炎を司るトキメキ王子なのです! 先ほども愛に迷えるあなたを愛の炎で正しい道へと導き……」
「おいウォンバット、なに言ってんだよ! モザイク処理しても言ったら意味ねえだろ!」
そう言う蔵王こそ、さっきのファンタジーめいた設定が事実だと肯定しているようなものだ。いや、というかあれは事実なのか。特撮ヒーローと変身ヒロインを足して二で割ったようなすっとんきょうな話が? しかし目の前で不思議な生物が自分でしゃべって動くところを見れば、ありえないとは言い切れない。
「その、愛の王子、だっけ? 蔵王の他にも何人かいるわけ?」
動揺と衝撃が一周回って冷静さを連れてきたらしい。平然と話を聞いている自分がどこか不思議だった。慌てた様子の蔵王をよそに、ウォンバット(その呼称は不本意らしいが)は喜々として質問に答えてくれた。
「もちろんです! 蔵王さんを含めた五人の王子たちが、この星に愛を広めてめちゃりんこ! ラブのラブがラブラブなのまっちょ!」
「ラブ……? あの、怪人っていうのは?」
「愛を恐れたり、愛を忘れたり、信じられなくなったり、失ってしまったり……そうした悲しきものたちを真の愛に目覚めさせるのが、王子の役割なのです」
「へえ……。夏くらいになると追加戦士が出てきそうなやつだ。なんとかゴールドとか、なんとか六号とか」
「追加戦士、ですと……! ぷっひょぉ……」
そこでウォンバットは前脚を顎にそえて唸り始めた。なにごとか思案しているらしい。
「ああもう、そのへんでいいだろ!」
蔵王は今度こそ逃さないようにウォンバットをしっかり抱え上げた。考えごとに没頭しているせいか、ウォンバットは抵抗しない。
「部活終わるまでまだあるだろ、
はもうちょっと寝てろって。な? な!?」
「えっ、えぇっ? この流れで!?」
「いーから、ほら! 布団被って!」
蔵王の勢いに圧されるように、私は大人しく布団に潜り込んだ。……まあ、体調不良で倒れたのだし、休むべきだというのは間違いじゃない。間違ってはいないのだが。
「んじゃ、おやすみ」
蔵王が私の頭に手を伸ばし、あやすように優しく撫で始めた。
「ちょ、ちょっと……」
「お・や・す・み!」
抗議の視線を送っても、あちらも一歩も引かないとばかりにじっと見つめ返される。こういう時の蔵王が絶対折れないのは、短くない付き合いでよく知っていた。ここは引くしかないらしい。助けてもらった借りもあることだし、大人しく寝るしかなさそうだ。
諦めて目を閉じる間際、ウォンバットを抱える蔵王の手首で、なにかがキラリと光った。よく見ると、男子高校生には不釣り合いの可愛らしいハートのブレスレットがはまっている。
ハートの、光……。
どこか既視感を覚えるそれをじっと見つめた。どこで見たんだっけ。しかし記憶を辿るより先に、また蔵王の「おやすみ」が降ってくる。どうしてもさっさと寝かしつけたいらしい。
それとも、心配してくれてるのかな。だったらちょっと嬉しいかも。
申し訳なさよりも嬉しさが先立ったことに、自分で驚いてしまった。蔵王の手に意識が向いて、なんだか鼓動が速くなる。雑念を振り払うようにぎゅっと目を閉じて、少しだけ布団を引き上げた。顔、にやけてたらどうしよう。というか、こんなんじゃ全然寝付ける気がしない。
しかし意外にも、睡魔はあっさりとやってくる。頭を撫でる心地よい手に導かれるまま、私は今日で何度目かの眠りについた。