遠い昨日のボーイミーツ



 冷たい怒りと悲しみが溶かされて、代わりに温かな安らぎが注がれていく。身も心も綺麗に洗われていくような不思議な感覚。お風呂のような心地よさ。
 ――お前はお前らしく、生きればいいじゃん。
 真っ直ぐなその言葉が、凍りついていた私の胸にあたたかな火を灯す。
 ――だったら俺が、一緒に探してやるよ。
 夢と現の間で、その言葉は……その言葉だけは、しっかりと握りしめた。
 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。体を起こすと首筋から腰にかけてじわりとしびれるような感覚があった。凝り固まった身体をほぐすように、ぐぐっと伸びをする。
 壁掛け時計を確認すると、十六時を少し回っていた。時計とはちょうど反対側、グラウンドの方からは、野球部やサッカー部たちの威勢のいい声が聞こえる。外の音がよく入ってくるせいで、この保健室の静けさが際立つようだった。
 時計の下に備え付けられた黒板には、日付と今月の生活目標が書かれている。いくつかのポスターと一緒に、委員会の当番表も貼られていた。そこに自分の名前を見つける。
 火曜日・放課後、
 そうだ、今は保健委員の当番中だ。寝起きでぼんやりしていた頭が、ようやくはっきりしてきた。自分の役目を思い出したところで、軽く両頬を叩いて眠気を追い払った。
 保健日誌に手を伸ばし、新しいページを開く。日誌といっても、左上に穴を開けて紐を通し、表紙にフェルトペンでタイトルを書いただけの、ただの大学ノートだ。保健室の利用状況を記録するために先生が用意したもので、普段は黒板の隅に貼られたマグネットフックにぶら下げられている。
 掌の底で押しながらノートをきっちり開いてから、保健室に備え付けの定規とボールペンで縦線を数本引いていく。日付、曜日、年組、利用者名、使用したもの、備考。一番上の行に項目を書き入れる。鉛筆に持ち替えてから二行目に今日の日付と曜日を記入して、とりあえずノートを閉じる。
 放課後の当番は十七時まで。それまでに怪我人や病人が来なければ、備考欄に「放課後・来室なし」と書き当番の保健委員の名前を添えて提出することになっている。二学期に入り、当番表が切り替わってからひと月ほど経つが、私が放課後の保健室で生徒の対応をしたことはまだなかった。
 いつもはもう一人の当番と喋りながら時間を潰しているけれど、あいにくと今日は欠席らしい。一人ではあまりに暇すぎて居眠りしてしまったが、さすがに残りの時間はまともに起きていないとまずい。
眠気覚ましに掃除でもしようか、それとも備品の整理がいいだろうか。体を動かす方が寝落ちは回避できそうだ。
 あれこれ候補を浮かべながら手元のボールペンを弄んでいると、――バン! という大きな音に思考を遮断されてしまった。次いでバサバサと紙類の落ちる音。誰かが乱暴にドアを開けたのだろう。
取り落としそうになったペンをギリギリのところで掴みながら、反射的に「入室はお静かに!」と言い放つ。廊下側のドアは、乱暴に扱うと黒板に衝撃が響いて掲示物が落ちてしまうのだ。
「悪いな! だが急ぎの用だ!」
 聞き覚えのある声に振り向くと、馴染みの道着姿が立っていた。秋から空手部の主将になった二年生の先輩だ。大柄な主将は、熊のようにのしのしと歩いてくる。
 兄が在学していた頃の空手部は男女別だったらしいが、近年は部員数が減ったため男女混合で一つの部活となっている。今年は厳正なるジャンケンの結果、男子のトップが主将、女子のトップが副主将に決まったのだ。
「どうしたんですか、主将。空手部でなにか?」
 今日は顧問の先生が出張だから部活は休みのはずだ。急な変更でもあったのだろうか。
「いいや、人を探してるんだ! こっちに誰か来なかったか!?」
 語気を荒げて迫る主将は、試合前のように殺気立っていた。こんな勢いで人探しとは、部員ですら逃げ出したくなりそうな気迫だ。
 おおかた誰かに試合を申し込むつもりなんだろう。主将は喧嘩っ早い性格で、なにかあるとすぐに「俺と手合わせしろ!」と迫るのだ。私も何度か相手をさせられたことがあった。
「保健室には来てないと思いますよ」
「廊下を通った奴は?」
「うーん、そこまではちょっと。少し寝ちゃってたんでわからないです。……すいません」
 少々気まずく感じながらも正直に答えると、主将は唸るように頷いた。
「相手は部員じゃないんですよね?」
「ああ。少し厄介な相手でな。お前の手を借りるかもしれない」
 やっぱり誰かと手合わせするつもりらしい。二年生の中で一番強い主将をして厄介というのだから、相当の手練だろう。手合わせできるのであればもちろん私もしてみたいけれど、真っ向勝負にこだわる主将にしては珍しい。
「もし蔵王ってガキが来たら、足止めしておいてくれ。また様子を見に来る」
 主将はそれだけ言うと、返事も待たずに走り去っていった。その後を、いくつかの足音が慌ただしく追いかけていく。きっといつも連れている空手部員たちだろう。真っ向勝負にはこだわるものの、ギャラリーがいないと燃えないタイプなのだ、あの人は。
 二年生の主将がガキと呼ぶのだから、探し人は一年生か。うちの学年で蔵王といえば、女好きで有名な男子が一人いたはずだ。武道の類を修めているという話は聞いたことがなかったけど、実は腕の立つ人間だったのだろうか。同じクラスではないし、接点もないので顔もよく知らないが、聞こえてくる噂からは軽薄そうなイメージしかなく、真面目に鍛錬に励むような人物像とは程遠い。しかし世の中には信じがたいような天才もいると聞く。彼もその類なのだろうか? なんにせよ、強者であるなら拳を合わせてみたい。
 開けっ放しのドアを閉めがてら軽く廊下を見回してみたが、主将たちが走り去った廊下は静まり返り、影一つなかった。
 ここへ来る確証があるわけでもない。早々に引っ込み、主将のせいでズレたり落ちたりしたポスターを直していると、今度は背後からすごい音がした。振り向くと、誰かが勢い余ってガラス戸にぶつかったらしい。幸いガラスは割れていなかった。こちらはグラウンドに面しているので怪我した運動部員がよく駆け込んでくるが、それにしたって勢いがありすぎるんじゃないか。
 ややあって、ゆっくりと戸が開かれる。ぶつけた顔をさすりながら、よろよろと入ってきたのはどの部のユニフォームでもなく、学ラン姿の男子生徒だった。
「しぬかと……おもった……」
 男子生徒は、運動靴を脱ぎ散らかして体を床に投げ出した。ぐったりと仰向けに寝転んで、全身で酸素を求めるように荒い呼吸を繰り返す。相当走り回ってきたのか、制服が砂埃で白っぽく汚れていた。髪もぐちゃぐちゃに乱れていて、植え込みでも潜ってきたのか小枝や葉っぱまで刺さっている。前髪のあたりにヘアピンがぶら下がっているのを彼は乱暴に外すと、汗で張り付いていた髪をかきあげた。額が赤く腫れているように見えるのは、さっきガラス戸に激突したせいだろう。盛大な音がしたわりにはたいした傷になってはいないようだ。
「……大丈夫?」
 保健委員として声をかけてみたものの、必死に呼吸を繰り返す彼には届いていないらしい。まだ落ち着いて話ができるような状況ではないのだろう。
 念のため、救急箱を手に取って近寄ってみる。逆さまに顔を覗き込むと、ようやくあちらも私の存在に気がついたようで、ぼんやりと私を見上げた。何度か瞬きして、ようやく焦点が合ったように目を見開く。
「あー……えっと、その……」
「息整ってからでいいよ。水でも飲む?」
「の、飲む」
 救急箱を床に置き、水道の隣に置かれた戸棚に向かった。ここにはグラスやマグカップも常備されている。冷蔵庫にはお茶もあったはずだが、今はとりあえず水でいいだろう。
 水を汲んだコップを片手に戻ると、だいぶ息の整ったらしい男子は体を起こしていた。片膝を立てて座り、水を受け取ると一気に飲み干す。
「おかわりは?」
 頷くので、もう一度汲みに立ち上がる。
 怪我人なんて、いないに越したことはないのだ。けれどたった一人で暇を持て余していた私にとって、彼の来室は少しだけありがたかった。
 二杯目も一気に飲み干した男子はようやくひと心地ついたというように、深く息を吐きだした。
「……ありがとな、助かった。お前って保健委員?」
 頷きながら、ふと男子のネームプレートに視線を落とす。学校名と名前の境に、赤いラインが入っていた。赤は私と同じ、一年生を示す色だ。――そして書かれている名前は、蔵王立。主将が探していた生徒と、同じ苗字。
 目の前の男子に気付かれないように、そっと息を呑んだ。
 こいつが主将を手こずらせた男、なのだろうか。とてもそうは見えないけれど……、見かけによらず強いヤツも、世の中にはいるものだ。それに、あまりに格上だと相手の強さを感じ取れないこともあると聞くし、この男がそういうタイプなのかもしれない。だとしたら、主将が私に助力を頼んだのも頷ける。
 もちろん同名の別人という可能性だってある。とにかく、話を聞いてみなくちゃ始まらない。
「さっき空手部の主将が来て、一年の蔵王ってヤツ探してるって言ってたんだけど、心当たりある?」
 空手部。その一言で、蔵王の肩がびくりと跳ねた。心なしか顔が青ざめて見える。言葉がまとまらないのか、何度か口をぱくぱくさせてから、蔵王は絞り出すように答えた。
「い、いやぁ~……人違い、じゃねー、かな……?」
 完全に目が泳いでいる。嘘をついていると、誰が見たってわかるほどの動揺ぶりだった。
「そう……」
 主将が追いかけていた相手は、おそらく目の前の生徒だろう。
 ただ、主将は蔵王のことをかなり腕の立つ人間かのように言っていた。そこだけがどうしても腑に落ちない。蔵王が本当に腕の立つ人物なら、先輩に見つかることを面倒がりはしても怯えることはないはず。それに主将は喧嘩っ早いけれど、その気もない素人に喧嘩を売って勝ち誇るほどに器の小さい人ではない。ましてや嘘をついて周囲を巻き込み、素人一人を囲もうとするなんて非道なこと、絶対にしないはずだ。だから彼が主将に追いかけられていた人物なら、ただの素人ではありえない、……はずなんだけど。
 一方的とはいえ足止めを頼まれてしまった以上、彼の存在を無視することはできない。しかし、こうも怯えた様子の彼を、あの火がついた状態の主将に差し出すのも気が引ける。
 さて、どうしたものか。
「じゃあ他に空手部と揉めてたヤツとか見てない?」
「全っ然、知らない! つーか空手部とか今日見てねーし! まったく、これっぽっちも!」
 念のためもう少し話を聞きたかったのだが、完全に警戒されてしまったらしい。蔵王が一切目を合わせてくれなくなった。しかも半ば腰を浮かせて、今にもここから逃げ出して行きそうな勢いだ。
「…………」
 この慌てぶりで、確信はさらに強まった。先輩が追いかけていた「蔵王」は、彼で間違いない。だが彼を主将に引き渡してしまって、本当にいいのだろうか。
 どうするか少し迷ってから、私はひとまず話を合わせることにした。
「わかったよ。ありがとう」
 返事に安心したのか、蔵王は大きく息を吐き出した。強張っていた表情がゆるゆると解けていく。心なしか血色も良くなっている気がした。
 そうして蔵王の顔をまともに見つめて初めて、その整った容貌に気付いた。
 ややつりぎみのはっきりした二重と、長いまつげに囲まれた大きな瞳、すっきり通った鼻筋、そして桜色の薄い唇。そのすべてのパーツが、日焼けしていない白い肌の、幼さが残る甘い輪郭の中にバランス良く収まっている。男子にしては少し長めの髪は今でこそ少し砂埃混じりだが、しっかり手入れされているのが見て取れた。
 家の道場でも部活でも空手漬けで日焼けした傷だらけの顔ばかり見ているせいか、美しい顔の少年というもの自体が物珍しく感じる。女の子のような可愛らしさを持ちながら、彼は確かに少年だった。
「あのさあ」
 その声で我に返る。食い入るように蔵王の顔を凝視してしまった。もしかして、気を悪くしただろうか。あまりに顔が綺麗で、なんて正直に言ったとしてもちょっと口説き文句みたいな気がする。……気まずさと恥ずかしさで頬がだんだん熱くなっていった。これじゃ、ますます変な感じだ。
「さっき借りたコップ、どうしたらいい?」
「え、ああ、それね。こっちで片付けるよ」
 気まずく思ったのは、こちらだけらしい。蔵王に気にしている様子はなかった。安堵しつつ、深く呼吸して平静を取り戻す。こう整った容姿だと、見つめられることにも慣れていたりするのかも。
 って、そんな場合じゃなかった。
 今は蔵王をどうするか、主将をどうするか、だ。見とれている場合じゃない。
 考えていられる時間だって長くはない。主将がまた保健室に現れるまで、あと二十分とないだろう。
 一番良いのは主将が蔵王を諦めてくれることだけど、それを促せそうな顧問も副主将もそばにいない。というか、いないからああなっているんだろう。
 そして最悪は、ここに先輩が現れて保健室で乱闘になること。いや、それよりも私の知らないところで暴れられる方が良くないかも。主将が引き連れている部員の中に、火の付いたあの人を抑えられるやつはいない。もし主将が冷静さを欠いたまま蔵王に手をあげたら。大怪我を負わせでもしたら?
 場合によっては主将だけでなく、空手部全体の問題になる。
 さすがに主将もそこまで考えなしではないとは思う、というか思いたい。でも、しかし、万が一ということも、ある。避けられるトラブルなら避けるべきだ。自分の目の前で起ころうとしているのなら、なおさら。
 とにかく、主将と蔵王の衝突、接触を避けなくちゃいけない。
そのためには蔵王をさっさと帰すのが手っ取り早いだろう。私がどこかで主将を引きつけている間にでも、こっそりと。
 今日を乗り越えさえすればいいのだ。明日になれば顧問たちに相談ができるし、主将だって一晩置いたら頭が冷えるかもしれない。他に興味が移るかもしれない。
 というか、なんで蔵王は校内に逃げ戻ってきたんだろう? 直帰したら家まで追いかけられると思ったのか。主将はなかなか執念深いので、賢明な判断かもしれない。
「蔵王、部活は?」
「俺? 帰宅部だよ」
「だったら早く帰りなよ。うちの主将、また様子見に来るらしいから。巻き込まれると面倒だろ」
「マジかよ!?……つーか、もしかしてお前も空手部?」
「うん。そんなことより、さっさと帰りなって。鞄は?」
「……まだ教室。家の鍵も入ってる」
「親の帰りって、遅いの?」
 こくんと頷いてから、蔵王は途方に暮れたように肩を落とした。
 彼を帰すには、まず鞄の回収をしなくちゃいけないらしい。どちらも主将に見つからずに、だ。
 どうしよう。どこから動こう。
 顎に手を添えて考え込むが、なにも閃きそうになかった。時間もない。気持ちばかりが急いて思考が濁っていく。
「うっわぁ……」
 その声に、思案に沈みかけていた意識が引き戻される。視線を向ければ、蔵王が片膝を立ててズボンを捲り上げていた。
「ど、」うしたの。後ろから覗き込んで、言葉が止まる。問うまでもない。晒された膝は、擦りむいて血が出ていた。膝の皿を覆うように範囲の広い擦り傷ができ上がっているが、幸いにも服に覆われていたおかげで傷口は浅いようだ。
 気付いたと同時に痛みも出てきたのか、蔵王はぎゅっと歯を食いしばった。試合中は怪我が気にならなくても、落ち着いてから痛み出すのはよくあることだ。今の蔵王も似たような状態だろう。
 本来なら今すぐにでも帰したいところだが、怪我をしているなら話は別だった。
「傷、手当しようか?」
「……ん、頼むわ」
 救急箱を引き寄せて、投げ出された膝の前に座った。手早く、すませなければ。
 手当の間に考えるべきは、蔵王の鞄をどうやって取りに行くか、だ。私が主将の足止めをしてみるか、それとも蔵王を保健室に匿っている間に私が鞄を取りに行くか。考えを巡らせつつ時計を見ると、ちょうど十六時半。主将が出ていってから十五分は経っている。今頃どこを走り回っているのだろうか。走ってるうちに落ち着きを取り戻してくれていたらいいのだが、それは一番ありえない可能性だった。
「ちょっとしみるだろうけど、我慢しろよ」
 消毒液を綿球に染み込ませながら言えば、蔵王は眉間の皺を深くして神妙に頷いた。



Up:2017.02.19