緑色の悪意



「蔵王、鳴子、見つかったか……って、何してるんだ」
 声に振り向くと、兄がこちらへ駆け寄ってきていた。むっと眉を寄せて少し険しい表情をしている。
 合同練習の初回から妹が迷子になって遅刻だなんて、失態もいいところだ。兄の顔に、泥を塗ってしまったのかもしれない……。さっと血の気が引いたが、兄は私に視線を向けると表情を緩めた。
「探したぞ、
「ごめんなさい……」
「気にするな、初めての場所だからな。仕方ない」
 柔らかい表情とは裏腹に、肩に乗った蔵王の手に向けられた視線はどこか鋭かった。その手をべりっと引き剥がすようにして、私を軽く引き寄せる。
「二人とも、探してもらって悪いな。助かったよ。だが俺の妹に手を出すのはやめろよ。せめて学校の外でやってくれ」
 はは、と笑い混じりにそんなことを言い出す兄に、蔵王が一瞬ばつの悪い顔をして、それから「えっ」と驚きの声を上げる。
「妹? 先生の?……だから見覚えあったのか。先生と似てますね」
「見覚えも何も、お前たち友達だろ? 今日会う予定だって、お前も言ってたじゃないか」
「いや、俺が会う予定だったのは……。…………え?」
 眉を寄せて蔵王が考え込む。
「どうした?」
「……あの、先生って何人兄弟ですか?」
 恐る恐るといった様子で蔵王が口を開いた。兄がちらりと私を見下ろして、それから蔵王を見る。どうやら事情を察したらしい。
、お前……まさか」
「私のせいじゃない! ていうか、言う暇がなかったんだよ」
 自分でもわかるくらいに不貞腐れた声が出てしまった。兄は苦笑を漏らしながら、なだめるように私の頭に手を置く。じろっと視線で抗議したが、兄はわかっているのかいないのか、にこりと笑っただけだった。
「俺とと弟の三人だよ。こいつは高二で、お前らと同い年。ちなみに、弟はまだ中三だ」
 数秒の沈黙が流れた。
「…………嘘だろ」
 呆然とした表情で蔵王が呟く。そう言いたいのは、こっちだって同じなのに。
 いたくショックを受けたような蔵王の顔を見ていると、抑えていた苛立ちが膨れ上がる。気付いたら、苛立ちのままに言葉が口をついていた。
「今日は予定空けとくって言ってたくせに、平気でナンパするんだな。そういう考えなしなところ、全然変わんない。……だからブッキングしまくるんだろ、昔から」
 蔵王がぎくりと顔を強張らせた。あいつの唇が開きかけたのを、遮るように尚も吐き出す。
「今日会えるの、結構楽しみにしてたよ。でもお前は違ったんだな」
 一年かけて修正した口調も、今はどうでもいい。どうせ蔵王にはこっちのほうが分かりやすいのだ。気にするだけ無駄でしかない。
「そんなに女子と遊ぶ方が楽しいなら、今からでも探しに行けば? 私はこれから部活があるから、その間に他のかわいい女の子と仲良くなってろ。じゃあな」
 言いたいことだけ言い切って、顔も見ずに背を向けた。きっと蔵王を傷付けただろう。でも今は蔵王のそんな顔を見て罪悪感を覚えたくない。傷付いたのは私なのだと、そう思いたかった。
「ごめんお兄ちゃん。早く戻ろう」
「でも、」
「戻ろう。これ以上、空手部に迷惑かけられないし」
 一秒でも速くこの場を立ち去りたかった。兄の顔も見られなかった。見たくなかった。
「……そうか。じゃあ、蔵王、鳴子、世話になったな。また」
 兄が歩き出してから私も続く。会話を持ちたくなかったので少し離れて歩いた。兄は時折私を振り返っていたようだけど、私は一度も顔を上げなかった。
 蔵王は、追いかけてこなかった。
 部室の中は空っぽで、誰も残っていなかった。皆すでに道場の方へ向かっているのだろう。急いで私も合流しなくてはいけない。
 頭では分かっていても、体はついていかなかった。とりあえずロッカーは開けたものの、そのままぼんやりと立ち尽くす。頭の中は蔵王のことでいっぱいだった。
 思えば中学の頃、蔵王と会っていたのはいつも放課後か休日だった。放課後は空手着かジャージを着ていたし、休日もジャージか、兄のお下がりばかり着ていた。あの頃は自分の見た目にまったく頓着していなかったのだ。
 さらに思い返せば、きちんとフルネームで名乗ったこともなかった気がする。一度も同じクラスや委員会にならなかったので、そんな機会もなかったのだ。
 蔵王は何かと有名だったから、こちらは直接話す前から蔵王の名前を知っていた。けれど私はいたって平凡な普通の生徒だ。うちの中学はかなり人数が多かったし、余計に埋もれやすかっただろう。
 記憶を辿れば辿るほどに、今日のこの事態は起こるべくして起こったとしか言いようがなくなっていく。
 男に間違われたくない、そのためのこの一年の努力は、正しく実を結んだと言って良いのだろう。なにせ私を男だと思いこんでいた蔵王が、同一人物だと気付かずにナンパするくらいなのだから。
 自分で至った考えながら、あまりにあんまりな結果だ。私の一年は蔵王と再会したときにナンパされるためにあったんじゃない。可愛いなんて言われて、一瞬でも頬を赤らめた自分が恥ずかしい。馬鹿だ。私は馬鹿だ。
 一人きりになって気が緩んでしまったのか、耐えていた涙の気配がじわりと押し寄せてくる。うずくまって泣き出したい気持ちを、どうにか押さえ込んだ。代わりにぎゅっと拳を握り込む。短く切りそろえた爪すら掌に刺さるほどに深く握りしめて、深く息をした。
 どこで、間違えたんだろう。
 もしも最初から私が普通の女の子だったら、蔵王と友達になることは出来なかった。巴映の言う「コンサートの姿」は見られても、今のような親しい友達にはなれなかったはずだ。
 でも、最初からちゃんと女の子らしくしていれば、こんな思いをせずに済んだのだ。
 私がすぐに蔵王に気付いたように、蔵王だって私に気付いてくれたはずだ。態度の違いに戸惑ったり、ショックを受けることだってなかったのだ。
 いいや、それよりも。私が男だったら。今も蔵王と同じ学校に通っていたかもしれないし、高校では同じクラスになって、もっと仲良くなれていたかもしれない……。
 今更変えられない部分で悩んでも意味はない。分かっているのに、後ろ向きな「もしも」ばかりが積み上がる。喉の奥からじわじわと押し寄せては涙に変わっていった。
「……っ」
 堪らえようにも後から溢れ出して止められなかった。鞄のポケットからハンドタオルを引っ張り出す。その拍子に、ごろんとスマホも一緒に飛び出した。オレンジの魚のストラップがついている。ゴールデンウィークに水族館に行ったお土産だと、巴映から貰ったものだった。
「あ」
 巴映はいつ蔵王とデートしたのか。その答えが、不意に閃いた。
 今なら正確に、蔵王と巴映のデートの姿を思い描ける。蔵王のアイドルの姿を知っている。知ってしまったからこそ、想像の中ですら蔵王の隣に自分の姿を並べることはできなかった。私はあんな蔵王と一緒に居たいわけじゃない。私が好きになった蔵王は、あの蔵王じゃない――。
 すとん、と全てが腑に落ちた。そうか。私は蔵王が好きだ。好きだったのだ。
 この気持ちは、友達としての好意とはきっと違う。もっと甘ったるくて、同時に少し苦い。だからこんなにもかき乱されている。些細な事でも、それが蔵王だから。
 たしかに私は様変わりしただろう。親戚すら一瞬気付かないほどに。それでも私は私だ。一見は変わっても、別人になってしまったわけじゃないのに。
 気付いてほしかった。気付いてくれるんじゃないかと期待した。身勝手で浅ましい期待だ。
 楽しみにしていたのだ。蔵王に会えるこの日を。どんな風に変わっているんだろう、きっと昔よりもずっとかっこよくなっているんだろうな、なんて。浮かれていた。私一人だけ。
『どうして先輩は――』
 かつての言葉が蘇る。問われたって答えようがない。そんなこと、私が決めたことじゃないのに。けれど今は、私が誰かに問いただしたかった。どうして私は男に生まれなかったんだろう。
 男に生まれていれば、あの時あんな形で彼女を泣かせることは無かった。今こんな思いもしなかった。
 男に生まれていればよかった。強くそう思えば思うほど、今の自分のすべてを否定されているようで、必要ないと言われているようで、胸が押し潰されそうだった。苦しくて息が出来なくて、涙を押しやるのに必死で、息を吸ってばかりいる。だって吐き出そうとしたら、今度こそ全部嗚咽に変わってしまうから。
 女の子らしくすることに決めてから――高校生になってからの日々は楽しかった。言葉遣いの矯正は苦戦したし、今でも戻ってしまう時は多い。けれど今まで興味すら持たなかった身の回りのこと、服装や髪型、小物を選ぶといったことは、思っていたよりもずっと楽しくて、その話題で母との会話が増えた。一緒に買い物に行ったときは、「実はずっと、とこうしてお洋服を選んだりしてみたかったの」と嬉しそうに笑ってくれた。
 男に生まれていたら、母のあんな嬉しそうな顔は見られなかっただろう。高校で出会えた友達と仲良くなることもなかった。何より今の私を、自分で否定してしまうことがひどく辛い。
 嫌なことがあっても、落ち込むことがあっても、稽古に没頭しているうちに忘れられた。思い悩んでいることも、稽古しているうちに気持ちがすっと決まったり、ふとしたはずみで良いアイデアが浮かんだりして解決できた。
 空手を嫌いになったことなんて一度もなかった。ただの一度も。
 それなのに今、空手着に腕を通すことがひどく億劫だった。何もしたくなかった。空手すらしたくない。
 すべて仕方がなかったことで、原因を探すのであれば私の怠慢だ。頭ではわかっていても、心がついていかなかった。何もかも投げ出してしまいたかった。こんなにも気持ちが波立つことは初めてで、抑え方が分からない。

 気持ちは着いてこなくとも、一度空手着を掴めばいつの間にか着替えが終わっていた。長年続けている賜物だろうか、体が勝手に動くのだ。着替えてしまえば、あとは稽古場へ向かうだけ。
 重たい気持ちのままに部室のドアを開ける。稽古場は左手の建物。すぐ目の前だから迷いようもないが、先ほどのこともあって兄には耳にたこができるほどに繰り返された。あの建物に、入るだけ。
 その時、どこかから強い視線を感じた。品定めするような目、そして真っ直ぐすぎるほどの悪意――。視線の所在を辿るよりも速く、針のように鋭い悪意が私の背に深々と突き刺さる。
「な、なに……、ッ!」
 焼け付くような感覚は一瞬で全身を駆け巡った。私の胸を満たしていた涙を一気に沸き立たせていく。
「う……ぅっ!」
 呑まれてはいけない――。頭の奥で警鐘が鳴る。呑まれてはいけない。迫り来る熱の波を押し返そうと歯を食いしばる。試合前の恐怖心を打ち消すのと同じ。平常心を取り戻す。深く息を吸って、吐き出す際に悪い感情を追い出していく。しかし追い出すよりも速いスピードで、泥のような感情はどんどん膨れていった。
 呑まれては、――。痛みと息苦しさに膝をつく。吹き出た汗がこめかみから鼻先へ流れ、灰色のコンクリートに滴り落ちた。その部分だけ色が濃くなって模様のようになるのを、焦点を定めることもままならない瞳がぼんやりと捉える。ぬかるみに足を取られるように、体が痛みに沈められていく。
 ――存外しぶといな。
 何者かの声が脳裏に響いた。お前は、誰。問おうにも声帯は震えてくれない。喉元まで痛みが迫っている。
 ――もう一針打ち込んでやるのダー。
 低い声の直後、再び背に焼け付くような感覚が迫った。
 呑まれ、て、――。
 体を支えていた腕から力が抜けて、どさっと地面へ倒れ込む。重力に従うように頭が転げた。視界の先では白い校舎が青空を枕に横たわっている。
「……っ」
 かすかに震えた唇が、何を囁こうとしたのか自分でもわからない。頭の中身がぐちゃぐちゃで思考がまとまらない。
 私のすべてが、一色に塗りつぶされていった。



Up:2016.09.23