迷子の子猫
「……どーーしよ」
子供じゃないと強気で言い返したくせに、この事態は極めて恥ずかしい。初めて来た場所とはいっても、こう見事に迷うものだろうか。
さっきから似たような景色ばかり続いている気がする。同じような作りの教室がいくつも並んでいて、どっちに向かえばいいのかまったくわからなかった。
兄の忠告通りに道を聞こうにも、運の悪いことに誰も廊下を通らない。スマホで兄を呼ぼうか、それとも近くにいることを祈って蔵王に連絡を取ってみるか……。いや、再会早々に迷子ではあまりに格好が悪い。頼るなら兄の方がまだマシだ。
ポケットを探ったところではたと思い出す。そういえばスマホは鞄の中にしまってきたのだった。これでは誰にも連絡のとりようがない。
肩を落とし、仕方なしに踵を返したところで、軽い衝撃とともに視界が塞がれる。曲がり角の向こうからやって来た誰かに、思い切りぶつかってしまったらしい。
「すみません!」
反射的にぱっと頭を下げた。足下の革靴などを見るに生徒らしい。ぶつかってしまったことは申し訳ないが、これで道を聞くことができそうだ。
「いや、俺もスマホ見てたし……」
あれ、てか、女子?
不思議そうな声。最もな疑問だろうと思いながら、はたと気付く。その声には聞き覚えがあった。――もしかして。期待に胸を弾ませて顔を上げる。眉難の生徒で覚えのある声といえば、一人しか浮かばない。
「やっぱそうだ、眉女高生? なんでここに? 知り合いでも探してんのか?」
スマホを胸ポケットにしまいながら、にこやかに話す男子生徒。
「……あっ!」
嬉しさで小さく声が漏れた。目の前にいたのは、期待通りの相手、――蔵王立だった。
特徴的な桃色の髪を、今はカチューシャでまとめている。ピアスかイヤリングもつけているようで、記憶の中よりも軽薄そうな印象に拍車がかかっていた。背丈が伸びて輪郭もシャープになり、かつては可愛らしい雰囲気の強かった面差しが、ぐっと男の人に近付いている。それでも黒目がちの目元を人懐こく緩める様子は、記憶のままだ。
ついさっきメッセージのやり取りをした。電話は数日前。連絡はそれなりに取り合っているのだから、久々に会ってもすんなり話せるだろうと、そう思っていたのに。
喜びが喉元をせき止めてしまったように、言葉が出てきてくれなかった。黙ったままの私を、蔵王が不思議そうに見つめる。
「てかどっかで会ったことある? なんっっか見覚えある気がすんだよなー……」
蔵王はあまり変わっていないけれど、私は様変わりしたと言っていい。年始に会った親戚にも随分と驚かれたくらいだ。蔵王とは中学以来会っていないのだから、気付かないのも無理ないだろう。
名乗ろうとした私に先んじて、蔵王が口を開いた。
「なあ、せっかくだし連絡先交換しない? なんか初めて会った気がしないって言うか、ゆっくり話してみてえなーって。ダメ?」
「……はい?」
「俺、こんなとこで可愛い子に会えると思ってなかったし、ちょっと感動してんだよね。だからこのままサヨナラってのもなんか味気ないっていうか、もったいねーじゃん」
「はあ……」
「あ、いきなりこんなこと言ったら引く? てか、もしかしてなんか急いでた?」
何が起こっているのか、何を言われているのか――。少しの間、理解が出来なかった。
これが俗に言うナンパなのだと、数拍の混乱の後にようやく気付いて。あまりの驚きに、うっかり口に出してしまっていた。
「え、これ、って、……ナンパ?」
呆然としている私の顔をのぞき込み、蔵王は何故か面白そうに笑った。
「もしかしてこういうの初めて? なんか、すげー新鮮! 驚いた顔も可愛いな」
あの蔵王が、私をナンパ? いったい何の冗談だろう。それとも本当は気付いていて、あまりに変わった私をからかっているんだろうか?
「こんな可愛いのにナンパ慣れしてないってことは、声かけられたのも初めてだったりして。……俺が君の一番もらっちゃった? なーんてな!」
何が面白いのか、蔵王はなおも嬉しそうににこにこしている。私はといえば、さらっと告げられた「可愛い」という言葉に戸惑うばかりで何も言葉を返せなかった。そんなことを男子に言われたのは初めてだし、よりによって蔵王に言われるなんて想像もしていない。混乱と戸惑い、それから自分でも捉えがたい感情が胸の中で混ざり合って体温をあげていく。頬が熱くなっているのが分かって、余計に鼓動が早まった。いったい、どうしてしまったんだろう。
「あ、ほんとにちょっと話したいなって思っただけだぜ? だからそんな身構えるなよ。な?」
固まったままの私に、蔵王も戦法を変えようとしているらしい。近づけていた顔を離して、困ったように笑う。警戒心を解こうとしているのだろうか。私の反応を新鮮だと喜びながらも、それに対応する蔵王はそつがないように見える。今まで様々なタイプの女の子を相手にしてきたのだろう。迷いのない対応は、試合慣れした選手の動きに通じるものがある。
ふと脳裏に巴映の言葉が浮かんだ。これがきっと、アイドルの蔵王立。友達である私に見せていた姿とは、全くの別物だった。
なんとなく聞こえていた蔵王に関する噂、蔵王本人がたまに話していた女子とのデート。そして巴映の言葉と、今日のナンパ。まばらに浮かんでいたイメージが繋がってしまった。
ああ。
感じたのは落胆に近かった。私は多分、この蔵王を知りたくなかった。見たくなかった。
膨らみかけていた再会の喜びが一気に萎んでいくのを、どこか遠いところで感じた。
「立、お知り合いは見つかりましたか?」
言葉が逃げてしまったみたいに無言のまま棒立ちでいると、蔵王の後ろから男子生徒がやってきた。ぼんやりと視線を向けて、その生徒の姿に目を瞬く。逃避しかけていた意識が、一気に鮮明になった。
こんなところで蔵王と会っただけでも驚きだったのに、それがまさか。
「おや、あなたは今朝の……」
彼も目を見張って私を見つめていた。どうやら人違いではないようだ。喜びと安堵で、ふと言葉が戻ってくる。自然と感謝が声になった。
「今朝は、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、彼よりも早く蔵王が反応した。
「え、何、もしかしてイオの知り合い?」
「知り合いという程では。今朝、電車が一緒になったんですよ。気分が悪そうだったので席を替わったんです」
「へー、イオが……。なんか珍しいな」
「私のこと何だと思ってるんですか。困ってる人に手を差し伸べるのは当然でしょう」
朝の親切な人が蔵王と親しいなんて、こんな偶然があるだろうか。イオという名前は何度か蔵王の話に出てきたことがある。たしかフルネームだと鳴子硫黄くんといったはずだ。兄に朝の人について心当たりを聞いてみたときに出た名前も鳴子だったし、同じ人だろう。
「具合はいかがですか?」
「おかげさまで。あの後はすっかり元気です」
「それはよかった。ところで、なぜこちらに?」
「部活の合同練習があって。部室の方まで戻らないといけないんですけど、その……道に、迷ってしまって……」
再会早々の失態に、声に力がなくなっていく。気恥ずかしさに俯いてしまうと、蔵王がえっ、と声を上げた。
「実は俺の友達も今日こっちに来てて、迷子になってるらしいんだよ。友達の兄貴がうちで先生してるんだけど、さっき先生に会った時に話聞いてさ。見つけたら部室棟まで案内してやってくれ、って頼まれたんだよ。すげー偶然! むしろ運命かも?」
蔵王はさらに嬉しそうにしている。何がそんなに嬉しいのかちっともわからない。
かと思えば、ふと小首をかしげて私の顔を凝視してくる。今日はなんだか顔を見つめられることが多い。あまりにじっと見てくるものだから一歩後退ると、蔵王も我に返ったようだった。
「どうかしたんですか?」
鳴子くんがちらりと蔵王に視線を投げた。
「あー、いや、なんでもねえ。多分、気のせい?」
「そうですか? まあ、今は立より彼女です。私で良ければお送りしますよ。これも何かの縁でしょうし」
「俺よりってなんだよ、てか抜け駆けかよ」
「君は友人を探していたのでしょう」
「もう戻ってるかもしんねーだろ。この子を送るついでに空手部に確認して、居なかったらまた捜せばいいじゃん」
「二手に別れた方が効率的だと思いますが」
「人助けは効率の問題じゃないんだって」
どうあっても蔵王は女の子のそばを離れたくないらしい。それなりに付き合いの長い友達より、初対面の女の子を優先する。どちらも私だけど、女の子というだけで優先順位が上がる。それがなんだか悲しかった。
あげく、「今日は予定空けといた」なんて言ったくせに、蔵王は平然とナンパしていた。もしこれが私じゃない女の子だったら、その子がデートを承諾したら。私との約束はどうするつもりだったんだろう。
答えなんて、火を見るより明らかだ。
女の子が一番大事だと言ってはばからない蔵王を、今までに何度も見てきている。最初からわかっていたのに、こうして突きつけられると苦しくなる。ばかみたいだ。
そして、蔵王が大事にする女の子たちの中から選ばれた幸運な一人は、たった一度のデートで飽きられて、次のコンサートまで抽選待ちをする。蔵王という運命が微笑むまで。
「さ、部室棟はあっちだぜ」
蔵王は自然な動作で私の背に手をそえた。完璧な笑顔で私を見下ろす蔵王が、こんなに近くにいるのにやけに遠く感じる。
私が知っていた蔵王は、明るく前向きで楽観的、自信と向上心に満ちていて、飽き性で気分屋なところもあるけど、不思議な愛嬌でそんなところも許せてしまう、憎めないやつだった。それが、私にとっての蔵王立。
周囲の女子からの評とは違っていると思っていたけれど、私は蔵王と特別親しくしているという自負があった。周りの女子が気付いていないだけなのだろうと、小さな優越すら感じていた。私のほうが蔵王を知っているなんて、自惚れていたのだ。
――私は、蔵王から女の子だと思われていなかった。
気付いた瞬間、ぐしゃりと胸を潰されたように息苦しくなった。
蔵王は私を女だと認識していなかった。だから今、目の前の私が友達のだなんて思いもしないのだ。そして「女の子」の私に、蔵王は遠くから完璧な笑顔を向ける。アイドルの姿。鑑賞するための偶像。
男に間違われないように、そのことで誰かを苦しめたり、自分が苦しむことがないように。この一年と少しばかり、自分なりに努力して変えてきた、その結果がこれなのか。
偶像の奥に浮かび上がったのは、私の心の中を占める蔵王の大きさだった。
ありがとうございます!
Up:2016.09.23