愛は心のミネラル



 温かな霧のようなものが頭上から降り注ぎ、視界が白く煙っていく。この感覚はいったいなんだろう?
 霧は私の体を優しく包み込み、深い安心感と幸福感を与えてくれる。怒りに冷たくなっていた指先がじんわりと溶かされ、凝り固まっていた四肢が解されていく。
 ――そうだ、これはお風呂だ。
 部活後の疲れた体を、ゆったりと湯船に浸すあの感覚。心身の疲労を洗い流してくれる、何にも代えがたい幸福な時間。
 胸の奥にしこりのように固まっていた、怒りや悲しみといった負の感情たちが急速に和らいでいく。怒りのままに変容していた体が元の姿を思い出し始めた。
 身も心もすっかり綺麗に洗われ、得も言われぬ幸福感が体中を満たした時、私はその幸せに全てを委ねていた。
 今朝は起床から少し体が重かった。女性特有の月のものが原因なのだろう、今日は二日目だ。私はあまりその影響を受けない体質らしく、このようなだるさを覚えることは滅多にない。それにきちんと食事をとって体を動かしていれば、次第に紛れてくるものだった。
 いつもよりも入念にストレッチをしてからキッチンへ向かうと、すでに母が立っていた。
「おはよ。今日の献立は?」
「焼き鮭と、わかめと油揚げのお味噌汁と、卵焼き。あと昨日の煮物ね。そろそろ鮭が焼けるからお皿に並べて」
「はあい」
 人数分の長皿を戸棚から取り出したところで、丁度グリルから焼き上がりの音が鳴った。菜箸を片手に引き開けると、余熱で皮をパチパチ言わせた切り身たちが綺麗に並んでいる。立ち上る匂いが食欲を刺激して、ぐう、と腹が鳴った。
「お、うまそー。この大きいのがいいかなあ」
。おいしそう、でしょ」
 思わず出てしまった荒い口調を、すかさず母が訂正する。……またやってしまった。苦い心地で「おいしそう」と言い直す。
 私の表情を注意されたことへの不服と取ったのか、母は少し咎めるような声音で続けた。
「もう男の子に間違われたくないから言葉遣いを直すのを手伝ってほしい、って言ったのは、あなたでしょう? 一度決めたことなんだからちゃんとしなさい。気持ちの強さだって大事よ」
「うん、わかってる。またやっちゃったなって、思っただけ」
 こんな時に思い出すのは、いつだってあの日のことだ。
 母も私の心中を察したようで、ふと口をつぐむ。あの日のことを平気な顔で話すには、まだ時間が足りない。母から逃げるように顔を伏せて、グリルに並ぶ鮭に向き合った。

 兄弟揃って幼い頃から空手漬けだった私は、口調から普段の振る舞いから、兄弟や父の門下生たちの影響を色濃く受けていた。短髪で服装にも頓着せず、私服は兄のお下がりばかり。そのせいでいつも男の子だと勘違いされた。
 兄弟と一緒にいれば、年の近い弟と一緒くたに「かわいい弟さんたちね」と声をかけられ、女友達と二人で遊びに行けばカップルと間違われる。
が彼氏だったら頼りがいがあるよね、空手強いし!」
 なんて、親しい友達に言われるのはあまり悪い気はしなかったけれど。冗談だとお互い分かっているから、笑って流すことが出来たのだ。
 そんな状況を変えなければならないと感じたのは、中学校の卒業式の日。私を好きだと告白してくれた後輩の女の子に「先輩が男の人だったらよかったのに。どうして男の人じゃないんだろう」と泣かれた時だ。
 誰かが私を「男らしい」と言うとき、半分は力強いとか、頼りがいがあるといった好意的な評で、もう半分はしとやかさに欠けるとか、繊細さが足りないといった否定的な評だ。男は力強く頼りがいがあるべきで、女はしとやかで繊細であるべき。そんな狭い価値観に閉じこめられることが、私には何よりも苦痛だった。女なのに男らしいとか、女のくせに女らしくないとか、その「らしさ」はいったい誰が定め、今日まで継承してきたのだろう。そもそも男らしさや女らしさよりも、重要なのは「自分らしさ」なのではないだろうか?
 父は強さを求めるために、周囲の反対を押し切って海外へ留学していたことがあるという。母も結婚の際には親族と揉めたそうだが、自分の心に従って父と一緒になった。そんな両親の背を見て育った私にとって、最も重んじるべきことは「自分の信じた道を進むこと」だ。
 だから周りが何を言っても、私は空手を続けた。男らしいとか女らしいとか言う人も、そのうち諦めてくれるだろうと受け流した。私は私だ。それで良いのだと。
 でもそれは、間違いだったのだ。
 あの日、あの子に泣かれた時。「なぜ男じゃないのか」となじられ、それに強い衝撃を受けたた時――私のしてきたことは、おそらく怠慢だったのだと気付いた。
 好意を寄せてもらえることは、嬉しかった。彼女はいつも空手部の練習を見に来て私を応援してくれていたし、休日に試合がある日は少し遠い会場でも足を運んでくれた。応援してくれる友達や後輩は何人かいたけど、一番熱心に応援してくれたのは、多分あの日泣いてしまったあの子だった。
 あの子だけ、他の人とは雰囲気が違うとどこかで感じていたけれど。私はその違いが何なのかずっとわからなかった。あの子の涙ながらの訴えで、初めて気付いたのだ。
 ショックだった。彼女が私を見つめる視線にそんな感情が宿っていたことが、何も気付かなかった自分の鈍さが。
 ずっと私を応援し続けてくれた彼女の、一番の望みを叶えることが私には出来ない。
 そしてあそこまで「女性として生まれた私」を否定されて初めて、私はどうあっても女性であるのだと強く自覚した。男性と認識されることに強い拒絶を覚えた。
 恋をしたことはまだなかった。それでも、私が恋をする相手は女性ではないという強い確信があった。当然、同性である彼女の恋人にはなれそうもない。
 彼女の気持ちに応えられずに、申し訳ない気持ちともう半分、彼女の言い分に多少の身勝手さを感じもした。良い後輩だと思っていた、彼女から小さな裏切りを感じた。けれど、私が蒔いた種であることは確かで。先に裏切ってしまったのは、私の方かもしれなくて。
 長年掛けて積もりに積もっていた息苦しさから逃れるため、高校は女子校へ進学すると前から決めていた。男だの女だのとうるさく言われるのは、男と女の二種類がいるからだろう。ならば片方だけ、女ばかりの環境に身を置いてみれば、少しは何か変わるのではないかと。
 しかしそれだけでは駄目だ。彼女の言葉で思い知らされた。私は変わらなければいけない。自らの強い意志で、変わるべきなのだ。
 空手だって漫然と流すような稽古に意味はない。周囲の認識を変えるならまず自分が変わらなければならず、自分を変えるにはまず自分の心持ちから変えていかなければならない。
 まずは言葉遣いから。それが私の高校デビューだった。今は二年目の初夏。友達の前では周囲に合わせればよいのでだいぶ矯正されてきたが、男友達や家族の前ではまだ以前の口調が出てしまう。その度にあの日のことを思い出して、苦い気持ちになった。
 髪も伸ばした。今は胸の少し上のあたりまで伸び、いつも高い位置で一つにまとめているのであまり邪魔にならない。結べる長さになるまでは鬱陶しくて、何度も切ってしまおうと思ったけれど、最近はこの長い髪にも慣れてきた。
 私の通う眉女高校は、地元ではそれなりに知名度のある女子校だ。制服を見れば、地元の人なら一目でそれとわかる。男に間違われることは、すっかり無くなった。

「今日はお兄ちゃんのところで練習なんでしょう? 中学の時に仲良くしてた……何て言ったっけ、お友達に会えるんじゃない?」
 母は味噌汁をつぎながら、空気を変えるように少し明るい声で言った。兄のところとは、勤務先の眉難高校のことだ。今年度から空手部のコーチを勤めることになり、近隣校である眉女高校の空手部と週一で合同練習が行われるようになった。今日がその初回だ。
 母の気遣いに感謝して、私もなるべく自然な調子を心がけた。
「うん。連絡したら、今日は予定ないから部活終わったら会おうって」
 三年間、同じクラスになることはなかったけど、ちょっとしたきっかけから話すようになった男友達がいた。連絡は取り合っていたものの、高校に入ってからはお互いに忙しくて、ずっと会えずにいたのだが。他愛もない雑談の中で合同練習のことを話したら、いつの間にか会う約束がついていた。
 眉難の空手部のレベルは高いと聞いている。だから練習はもちろん楽しみだけど、今日ばかりは久々に友達に会えるかもという期待の方が大きかったりする。
「さて、ご飯も炊きあがったし、冷めないうちに運んじゃって。お父さんたちもそろそろ起きてくる頃だわ」
 壁に掛かった時計をちらりと見ると、そろそろ朝食の時間だ。母に返す、私の声には素直な明るさがこぼれた。
 朝稽古を終える頃には、起床時のだるさは綺麗に払拭されていた。いつも通りきちんとご飯を食べた、稽古でもよく身体を解してから動いたし、その後のシャワーもいつも通り。水分補給も怠っていない。……それなのに。
 何だ、このだるさは。
 頭に重たい布を掛けられたような感覚。頭がぐらぐらして平衡感覚が薄れていく。うまく踏ん張って立つことが出来ない。必死で吊革に掴まっているのに、今にも力が抜けてしまいそうだった。せり上がる吐き気を必死で飲み下し、深い呼吸を心がける。気分を紛らわせようと窓の外へ視線を向けてみても、まるで効果は感じられなかった。どうにか座れないかと車内を見渡しても、通勤通学ラッシュに差し掛かっている今の時間帯に空席は見られない。混み合うピークよりも早い時間のため、ぎゅうぎゅう詰めでないのがせめてもの救いだ。
 誰か次の駅で降りないかな。祈るような気持ちで目を閉じた時、ふいに腕のあたりを軽く叩かれた。
「席、替わりましょうか。顔色が悪いですよ」
 声は私の頭よりも低い位置から聞こえた。頭の重たさに邪魔されて、それが目の前に座っている男の人の声だと気付くのに少々時間がかかってしまう。彼の言葉に周囲の人も「本当だ」「大丈夫?」などと口にしながら、席を替わりやすいようにスペースを空けてくれた。
「ありがとう、ございます……」
 絞り出すように感謝を口にすると、その親切な人は知的な面差しを和らげて優しく微笑んだ。
「いえ、お気になさらず。よかったらこちらをどうぞ。まだ口をつけていませんから」
 彼は茶色のスクールバッグからミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、一度キャップを開けて閉め直してから私の手に持たせてくれた。朝買ったばかりなのだろうか、まだひんやりとしている。冷たさが心地よくて首筋に当てると、重くまとわりつくような不快感が少しだけ引いていった。
「ありがとうございます、本当に」
 頭を下げようとする私を、彼は軽く手で制する。
「楽にしていてください。制服から察するに、眉女高ですよね。駅が同じですし、着いたら起こしますから寝ていても構いませんよ」
 彼の姿をよく見ると、眉難高校の制服を着ていた。落ち着いた物腰は年上のようだが、制服や鞄の質感を見ると同い年くらいのようにも思える。物持ちが良い三年生ということも考えられるが、どちらだろう、……そんな思案が出来る程度には、気分が回復していた。胸を圧迫するような気分の悪さが抜けたせいか、軽い睡魔を感じる。
「すみません、お願いします」
 普段の私なら、初対面の人にここまで甘えてしまうことはなかっただろう。けれど彼の涼やかな声は不思議な安心感があり、素直に聞き入れてしまった。
 目を閉じると、じわりと眠気が強まる。座席に深く背を預ければ、もうあっという間だ。
 電車の規則的な揺れが、私をすぐに眠りの淵へ連れ去っていった。



Up:2016.07.11
Last Up:2016.09.23