何事もなかったような顔して

 蝉の声がわんわんと折り重なって、聴覚を埋め尽くしている。じりじりと照りつける陽射しから逃れるために出水とが立ち寄ったのは、遊具が二つ三つほどしかない小さな児童公園だった。ただ立っているだけでも参ってしまいそうなこの暑さでは、遊ぶ子供の姿なんてひとつもない。気まぐれにが触れたブランコの座面は、木製にも関わらず燃えるように熱されていた。
 隅に備え付けられた木陰のベンチへと逃げ込んだ二人だったが、降りしきる蝉の音はわずかに和らいだ暑さを打ち消してしまうほどにかしましい。うんざりと顔をしかめながらも、しかし茹だるようなこの暑さでは再び日陰を求めてさまよい歩く気は到底起きなかった。鞄の中ですっかりぬるくなってしまったペットボトルのお茶で喉を潤しながら、この時間帯では本数の少ないバスを待っている。
「ほんっと暑いねー、暑すぎて暑いしか言えないくらい暑い」
「暑い暑い言うなよ、余計暑くなんだろ」
「だって、暑いんだもん」
 アイス食べたいなぁ、かき氷、ソフトクリーム、メロンソーダ、そうめん、冷やし中華。
 思いつく限りの冷たいものを挙げ連ねていくに、出水も追随する。冷凍みかん、ポッキンアイス、コーラ、シェイク、冷や麦、麦茶。
「そうめんと冷や麦ってどう違うの?」
「なんだっけな、この前テレビで見た。確かー……太さ?」
「ああ……って、どっちが?」
「多分、冷や麦が太いんじゃねーの? あんまり食ったことないからわかんないけど」
「うちもだなあ、だいたいそうめんばっかだよね。こないだお中元で来たから、毎日そうめんだよ」
「おれん家も」
 そこで、ふつりと会話が途切れた。暑さに言葉を続ける気も失せてしまったのか、はだらりとベンチに背を預けて空を仰ぐ。背もたれの縁に首の背を乗せ、枝葉の隙間から溢れる陽光に目を細めた。汗で張り付いた前髪を乱暴にかきあげると、再び「暑いね」と呟くように漏らす。そしてそのまま、ゆるりと瞼を閉じてしまった。
「おーい、寝るなよ。担いでバス乗るの、嫌だからな」
「寝てないよお」
 そう答えながらも、の口調は普段よりもいくらか間延びして覇気がない。暑さにくたびれてしまうのはわかるけれど、ここで寝られては困ってしまう。
 出水は「こら、起きろ」と手の甲で頬をひたひたと叩いた。しかしは目を開けるどころか、「公平の手、ちょっとつめたぁい」と心地よさそうに表情を緩めるばかりである。
「ったく……」
 こっちの気も知らないで。零れそうになった恨み言を飲み込んで、代わりに出水は深々と溜息を漏らした。手の甲に触れるの頬から、じんわりと熱が伝わってくる。そのまま柔らかな頬を撫でてやれば、長い睫毛がかすかに震えた。白く丸い額や晒された喉には汗が伝い、木漏れ日を受けて輝いている。薄く開いた唇からは穏やかな吐息が零れていた。
「寝たら置いてくからな」
「……うん」
 もうほとんど夢のふちにいるのか、の返事はなんとも力ない。出水の声の半分も届いていないであろう危機感のなさだ。それとも出水が自分を置いていくわけがないと、信じているのか。無防備なその横顔を、ぬるい風が撫でていく。
「…………」
 こんなの顔を、他の誰にも見せたくない。無条件の信頼を寄せられるのは自分だけで――いや、自分だけがいい。
 いつの間にか育っていた独占欲に出水が気付いたのは、ほんのひと月ほど前のことだ。しかし一度自覚してしまえばみるみるうちに膨れ上がり、無視などできなくなって。これが恋なのだと、ずっと恋であったのだと、受け入れるのにさほど時間はかからなかった。
 そうして恋心を受け入れてからも、表面上は何も変わらずに、幼い頃から続く日々の延長を繰り返し続けている。その場所が最も、彼女の近くに立てるから。
 反面、そんな信頼などさっさと壊してしまいたいとも思っていた。出水の手はを守るだけのものではないのだと、その気になれば彼女の望まないことだって出来てしまうのだと、はやく思い知らせてやりたい。わずかに冷たいこの手の意味、無防備に寝顔を晒すを異性として意識していることに、いい加減に気付いてほしい。
、起きてるか?」
 返ってくるのは吐息だけだった。見慣れた寝顔にさえ出水の鼓動は速まって、決定的に変わってしまった自らの感情を改めて思い知る。降りしきるような蝉の鳴き声が、わずかに遠のいた気がした。
 出水はそろりと手の甲を離して、今度は両の手のひらでの顔を包み込む。まだかろうじて意識が引っかかっていたのか、の瞼が小さく震え、かすかに持ち上げられた。うっすら開かれたその視界に、出水だけが映り込んでいる。このまま覆い被さって唇を奪ったら……、は、どんな顔をするだろう。破滅的な好奇心が首をもたげ、それをごくりと飲み下す。
 幼気な信頼など、さっさと壊してしまいたい。けれど、の隣を他の誰かに譲り渡す気だって、さらさらないのだった。いっときの衝動に任せて壊すのは簡単だが、それで逃げられてしまっては意味がない。
 頬に添えていた手をずらして、両耳をぴったりと塞いでやる。はたりと目を瞬かせるの瞳には、わずかな戸惑いの色こそ混じっていたが、底にあるのはどこまでも無防備な信頼だ。
 それが憎らしくて、同時にひどく愛おしい。
「……好きだ。が好きだ」
 囁くように告げた本心は、出水の両手に阻まれて、には届かない。
 いつかその信頼を、幼気なまなざしを、壊してやる。けれどそれは、今じゃない。
 勝算はある。を誰よりも理解しているという自負があるし、幼馴染として積み上げてきた感情なら溢れるほどにあるはずだ。すっかり塗り替えるのは容易ではないだろうけど、出水のそれが変化したのだから、にだって可能性はある。ゆっくりと、時間をかけて、出水が抱く熱を移し与えてやろう。そうして気付いたら、きっともう逃さない。
「……公平?」
 伺うように名前を呼ばれて、出水はぱっと手を離した。名残惜しく思う気持ちも先ほどまで覗かせていた熱の籠もった表情も、さらりとどこかに逃してしまい、「虫、ついてたぞ」なんてひらひらと手を振る。
「え、うそっ! 早く言ってよお!」
「取ってやったんだからいーだろ。つーか寝てるおまえが悪い」
「ね、寝てないってば!……ちょっとしか」
「やっぱ寝てたんじゃん」
「……ちゃんと起きる気だったよ」
「はいはい。じゃあちょうど起きたんだし、もうバス停行こうぜ。そろそろ来るだろ」
 ベンチに転がしていた鞄を掴み、出水はさっさと立ち上がる。空のペットボトルをの隣から拾い上げ、「捨ててくる」とゴミ箱へ向かっていった。
 その背に「ありがと」を声をかけてから、――は、そっと自分の両手で耳元を覆った。出水がたった今まで触れていたその場所に、出水の手よりもわずかに高い、自分の体温が重なる。熱い頬に熱い手のひら。自分の熱を自覚するほどに、ほんのり冷たかった出水の温度がそこに蘇った。
「びっ……くりしたぁ…………」
 どきどきと早鐘を打つ心臓の音が、塞いだ耳の内側で響いている。あれだけうるさく感じていた蝉の声が今は聞こえないくらい、鼓動が激しく打ち鳴らされて、真夏の熱気とは違うあつさが胸の裡に広がった。
 はじめて見る出水の表情に、胸がざわめいてしょうがない。あのまま唇を重ねられてしまうんじゃないか、なんて、一瞬でも期待してしまった自分が恥ずかしかった。
 ……期待、した。思わず反芻して、かっと頬に熱が走る。期待ってことは、つまりわたしは公平に、キス、されたかったって、こと、?
 出水の熱っぽい眼差しと、湧き上がったひとつの感情がぐるぐると脳裏を埋め尽くして、動けなくなる。そんなはずないと、否定すればするほどに、どくどくと心臓の音が大きくなる気がした。
「おーい、なにやってんだよ」
「っ!」
 真っ赤に染まっていたの意識に、出水の声が割り入った。びくっと肩を揺らして振り返れば、公園の出入口に立った出水が片手を口に添えて「置いてくぞ」と呼びかけている。
「い、今行く!」
 胸に広がる熱を振り払うように、は勢いよく立ち上がった。スカートの裾をばたばたと叩いて埃を落とす素振りをしながら、いったいどんな顔で出水のもとへ向かえばいいのだろうと、茹だりそうな頭を必死に巡らせる。
「もうバス来るぞー!」
「はーい!」
 急いで鞄を掴んだものの、一度自覚した熱はなかなか引いてくれそうにない。一歩木陰から踏み出せば、裡に籠もる熱と同じくらいの強い熱光線がじりじりとを苛んだ。駆け出せば一層灼熱が身を焦がして、どっと汗が吹き出てくる。
 もう、暑いのか熱いのか、にはわからなかったし、わかりたくなかった。だったらすべて真夏のせいにしてしまえばいいと、陽炎が静かに囁きかける。の頬があついのも、出水のまなざしがあつかったのも、全部ぜんぶ、真夏のせいなのだと。
 身を焼く熱を逃がすように、は深く息を吐く。こちらを振り返って手招きする出水の姿がひどく眩しいのも、あのほんのりと冷たい手が恋しくてしかたないのも、きっと。
 陽炎の囁きに、は一も二もなく頷いた。



Up:18.06.30
title by 金星
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