こどもの国を抜けるまで
家を出る頃にはまばらだった人影が、だんだんとその密度を増していく。祭り会場の三門神社にはあと十分と歩かず着くだろう。浴衣姿が目立つ人波のなか、普段よりもゆっくりと歩くも、例にもれず先日買ったばかりだという浴衣を身に纏っている。白地に大きな花模様の浴衣は、一緒に買い物へ行った仁礼と色違いらしい。かんざしは揃いで似合うものを苦労して見つけたのだと、昨日の任務帰りにはしゃいだ様子のから聞いていた。
からころと下駄を鳴らして上機嫌に笑うの横顔を、出水はそっと盗み見る。こうしてと夏祭りへ行くのは数年ぶりだ。出水が最後にの浴衣姿を見たのは小学生の頃だろうか。年を重ねるにつれて緩やかに開いていった二人の距離は、あの侵攻の後に、そしてボーダーに入隊してからまた近付き、ほとんど昔に戻ったと言っていい。人前ではいつの間にか生まれた慣習のまま苗字で呼び合っているものの、気安い仲であることを無理に隠す必要はなくなった。周囲のからかいが大人しくなったのは精神的に落ち着きつつあることのほか、単純に飽きもあるだろう。二人ともボーダーに所属し、行動を共にするわかりやすい理由が増えたことも大きい。
けれど、何もかもが元通りになったわけではない。歳を重ねるごとに行動範囲が増え、交友関係も広がった。昔は家族に連れられて出かけていた場所へ自分の足で向かうようになり、その際に誘う選択肢はお互いだけではない。
小学六年生の二人がこのお祭りへやってきたとき、もう家族の同伴はなかった。出水はクラスメイトの男子と屋台をまわり、は当時習っていた新体操教室の友達と花火を見た。お互いの姿を見かけることは一度もなく、もしすれ違っていたとしても人のごった返す祭り会場では、とても分かりはしなかっただろう。
中一の夏は祭りどころではなく、中二の夏はクラスで仲の良かった男女のグループと、中三の夏はボーダーでできた男友達と来た。
そして去年、出水の隣を歩いたのは夏休み前にできた一つ年上の恋人だった。バレー部に可愛い先輩がいる、と出水の学年にまで名前が知られている人だった。
小学生の頃に見たの浴衣姿を、出水ははっきり脳裏に描くことができる。今年のこの姿だってきっと忘れないだろう。数年後のが「あの時着ていた浴衣がね」と話に出せば、あああれか、と思い浮かべることができるはずだ。それなのに、たった一年前に隣を歩いたはずの彼女の姿は確かな像を結ばず、浴衣を着ていたかどうかすら定かでない。夜店の食べ物ならりんご飴が好きだと言っていたことだけは、妙に覚えていた。子供の頃のが毎年のように食べていたのもりんご飴だったから。
薄情かもしれない、と思う。自分へ想いを寄せてくれていた恋人に、出水はあちらが願うものをなにも返せはしなかった。去年の彼女だけではない。今まで付き合いのあったどの女の子にもそうだった。求められれば応じたけれど、出水から与えたことは一度もなかったし、ただなんとなく、女子にモテるとか、恋人がいるとか、そんな甘やかな響きに流されただけだった。始まりも終わりもあちらからで、高揚も落胆も、数日もすれば喉元を過ぎて消えていく。触れた温度も一緒に見た景色もおぼろげで、残ったのは付き合っていたという事実だけだった。
彼女たちは、自分と過ごした一日一日を覚えているのだろうか。出水を好きだと言ってくれた彼女たちは、どんな気持ちで隣を歩いていたのだろう。
きっと出水に面した半身すべての神経を研ぎ澄ませていたはずだ。何気ない会話の中で横顔を盗み見て、自分のすぐそばで揺れる手の甲から意識が剥がれなくて、日が落ちかかってすら暑さの残る真夏の夜を恨めしく思ったり、太陽が長く彼の人を照らしてくれることをありがたく思ったりしただろう。
少なくとも今、隣を歩く一人の少女に焦がれる出水はそうだった。
どの屋台からまわろうか、みんなもう集まってるかな、今年の花火も楽しみだね。なんてことない会話に相槌を打ちながら、楽しげに表情をほころばせるから目が離せない。浴衣の襟から覗く白いうなじや汗で張り付いた後れ毛が、暑さと祭りへの期待に上気した頬が、薄く色付いた唇が、出水の鼓動を速めていく。吐き出す息があつくて、気付かれないように深く息をした。生ぬるい真夏の夕方の空気では茹だりそうな頭を冷やしてはくれないが、この暑さなら頬の熱も誤魔化してくれるはずだ。
そうして、一瞬でも意識を離したのがいけなかったのだろうか。「あっ」と短く叫ぶの声が、思いの外遠くから聞こえた。声の方へ視線を走らせれば、の姿はいくらか前方へと流されている。きょろきょろと周囲を見回すは、出水の姿を見失ってしまったらしい。不安げな横顔が自分の名前を呼ぶのが見えるのに、賑やかな人混みの中ではこちらの声もろくに届かない。
よそ見がたたってか、誰かにぶつかったことでの足がやっと止まった。人の合間を縫ってどうにか追いつくと、「こっち」と声を掛ける。顔を上げたは出水の姿をを見留めると、ほっと眉を開いて微笑んだ。
「後ろにいたんだ。先に行っちゃったのかと思って焦ったよ」
「焦ったのはこっちだっつーの。呼んでんのに全然振り向かねーんだもん、お前」
「ごめんごめん。にしてもほんと、すごい人だね。またはぐれちゃいそう」
冗談めかして笑ったに、出水はそっと息をのむ。迷ったのは、一瞬だった。
「しょーがねーな」
相変わらず手がかかることだ。そんな顔を、いつも通りに浮かべることができているだろうか。どうか振り払わないでくれ。そんな願いはおくびにも出さず、出水は汗ばんだ手のひらをのそれに重ねた。
「え、」
「はぐれたら困るから、な」
昔は簡単に取れたの手が、今はこうして理由を探さなければ触れられないことがひどくもどかしい。あの頃に比べてお互いに大きくなっているはずなのに、の手は出水のものよりも小さくて、開いた男女の差と過ぎた月日の長さに気付く。いつの間にかの頭を見下ろしてばかりいることに気付いたのと同じ、さみしさとちいさな喜びが混じり合って、出水の胸に染み込んだ。
「もー、子供じゃないんですけど」
そう文句を言いながらも、は手をほどこうとしなかった。そのことに安堵を覚える一方で、自分ばかり意識しているのがどうにも悔しい。いつか覚えてろよ、なんて心の中では強気に構えながら、今はまだ、ただの幼馴染の顔をする。
「着いたら離してやるよ」
あくまで待ち合わせ場所へ着くまでのこと。自分に言い聞かせるためにもそう告げれば、は「はーい」と素直に応えて、出水の手を柔らかく握り返した。
Thanks! 診断メーカー「君と過ごす夏」