記憶喪失
「ほんとに、……ほんと、なの……?」信じられない。信じたくない。蒼い顔で唇を震わせる彼女に、おれは頷きを返すことしかできなかった。おれの肯定を認めた瞬間、ぎりぎりで堰き止められていた感情が決壊し、彼女は顔を覆ってすすり泣き始める。肉の薄い小さな肩が揺れて、緩いクセのついた茶髪が背中側から前へと落ちていった。指の隙間からは「うそ」「どうして」とおれの現状を呪う言葉ばかりが漏れている。
嘘なんか吐いてはいないし、理由ならおれが聞きたい。
目が覚めたら記憶がなかった。目が覚める前、昨日、一昨日、一年前、十年前、自分のこと、家族のこと、今日がいつで、ここがどこなのか。なにもかも、なかった。
思い出そうとは、した。しかし、頭の中は靄がかかったように全てが不明瞭で不鮮明だった。必死に手を伸ばしても厚い靄に阻まれて、なにも掴めず触れることさえできない。当たり前にあるはずの過去が空っぽで、おれという存在自体が目覚める前からブツリと切り離されたような、どうしようもない頼りなさと不安感が、おれの背中にべったり貼り付いている。
自分の名前さえも思い出せないので、彼女が呼びかける「こうへい」がおれを指すことは分かっても、いまいちピンとこなかった。けれど、頭の中に「公平」という字が妙にはっきり浮かんだので、多分、おれの名前なのだろうと思う。
「……あの、さ」
ベッドサイドの椅子でさめざめと涙を流す彼女に、おれは控えめに声を掛けた。頼むから泣き止んでくれ。てか、どっちかと言えば泣きたいのはおれの方なんだけど。胸に広がる漠然とした不満とも怒りともつかない言葉は、しかし、今この場には不適に思えた。なにかもっと、おれが言うべき言葉があったはずだ。
なにも言葉が見つからないまま、なんとはなしに彼女へ手を伸ばす。明確な意思で伸ばされたわけではないのに、おれの手は――すべきことが分かっているかのように、迷わず彼女の手首を掴んでいた。細く白い彼女の手首は、おれの掌にしっくりと馴染む。彼女がぴくりと体を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。長い睫毛が、涙で濡れている。丸く大きな瞳が、涙の膜の中できらきらと光る。
「――そんなに擦ると、目が腫れるぞ」
自分でも、どうしてそんな言葉が出たのか分からなかった。ただ、ふっと浮かんだのがそれだったのだ。迷わず彼女の手首を掴んだように、無意識の底からなにかが湧き出して言葉になった。彼女の名前すら分からないのに、「おれ」が「彼女」に言うべき言葉はこれだったのだと、妙な確信がある。空っぽの過去の中で、なにかがチカチカと光っている。
おれは多分、彼女の涙の止め方を知っていた。
「……こう、へい」
呆然とおれの名を呼んで――彼女は、またくしゃりと表情を歪めた。目尻からぼろぼろと涙が零れていき、彼女の手を伝っておれの手まで落ちてくる。あたたかいみずがおれと彼女の手の間に入り込んで、二人の肌の温度をわずかに下げる。
おれの行動は、おそらく彼女が知る「公平」という人間として正しかった。正しかったからこそ彼女に期待させ――そして裏切ったのだ。おれの一挙手一投足は、彼女の希望で絶望だった。
不思議だ。自分が一人の人間にそこまで強い感情を抱かれていることが、どうにも不思議でしょうがない。泣きながら今のおれを呪う彼女にうっすらと怒りを覚えていたはずが、気付けばどうでもよくなっていた。そんなことよりも、彼女のことが知りたかった。
「なあ、聞いてもいいか」
目尻に溜まる涙を指で拭ってやりながら、おれは尋ねた。血相を変えておれの病室に飛び込んできて、無事が分かると床にへたりこんで、親愛を込めておれの名前らしきものを呼び、記憶のないおれを見て身を絞るように泣くあんたは。
「あんたは、おれのなんだったんだ?」
彼女がおれを心の底から大切に思っているらしいことは、この短時間で痛いくらいに分かった。それから多分、おれも彼女のことをそれなりに大切にしていたのだろう、ということも。でなければ、彼女はこんなにも裏切られたような傷付き方をしないはずだ。
記憶を失う前のおれが大事にしていたものなら、おれも大事にしたいと思った。いつ記憶が戻るのか、そもそも戻るかどうかも分からないけれど。大切なものであればこそ、これ以上なにも失いたくない。現状に抱える不安や戸惑いは欠片も晴れないが、彼女を失えないという意思は自分でも驚くほどクリアだった。
「わたしは……」
瞳に溜まった涙を一度流すように、ゆっくりと瞬きをする。深く呼吸をしてから、彼女は苦しそうに微笑んだ。
「わたしは、あなたの幼馴染。公平は、わたしにとって世界で一番たいせつな、幼馴染だったの」
世界で一番。そう臆面もなく言ってのけた彼女は、「公平にとってどうだったかは、分からないけどね」と控えめに添えた。
「……おれも、分かんねえけど」
恋人かなにかだと思っていたおれにとって、「幼馴染」というどこかふわふわした関係は少々拍子抜けするものだった。しかし、言われてみればなんとなく、しっくり来るような気もしている。
明確な肩書などなくとも、互いの隣を選んできた。ただ手だけを繋いで、ここまで走り抜けてきた。そんな不確かを積み重ね、二人の輪郭を確かなものにしていく日々が、なんだか「らしい」と、すとんと胸に収まる。
「世界一かどーかは置いといて、多分……。おれも、あんたのこと、大切だと思ってた……と、思う」
子供みたいな辿々しい言葉を、彼女は笑わなかった。全身を傾けて聴き、それから噛みしめるように頷く。
「うん……そうだったら、いいな」
また、彼女は苦しそうに笑った。目が覚めてからずっと、彼女の辛い表情ばかり見ている。そうさせているのはおれなのだと理解していても、そんな顔はちっとも彼女に似合っていない。
「あんたはおれのこと、いろいろ知ってんだろ。だったら話してくれよ。聞いてるうちに、思い出すかもしんねーし」
どこに置いてきたのか、誰が奪っていったのか知らないが、おれの記憶はおれのものだ。どうあっても取り返さなくちゃいけないし、絶対に取り返してみせる。やられっぱなしは性に合わないのだ。記憶なんかないけれど、多分おれはそういう人間だった、そんな確信だけがある。
だからいつか、おれがあんたの「世界一たいせつな幼馴染」を取り返した時には、あんたも取り返してくれよ。あんたに一番似合う顔が、きっとどこかにあるはずだから。
「うん。うん……なんでも話すよ。わたしが覚えてること、ぜんぶ話すから」
生まれた時から一緒だもん、すっごく長くなるからね。
涙を零しながらも微笑んだ彼女は、きれいだった。彼女がさっきおれを形容するのに使った「世界一」というフレーズがふと蘇る。
世界一、かどうかは分からないけれど。少なくとも、今日見た彼女の中で、今のおれが知る彼女の中で――一番の、笑顔だった。
Up:2019.07.20
twitterタグ #お相手が記憶喪失になって君は私の何だったんだと尋ねられた時の夢主の答え
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