借り物競争で恋人を借りられる
2年B組の応援席に駆け寄る男子生徒の頬が赤いのは、なにも全力疾走したせいだけではなかった。緊張といささかの照れと、そして一種の高揚によるものだ。男子生徒は手にしていた小さな紙片をぎゅっと握りしめて、上ずった声を出した。
「さん!」
周囲の応援にかき消されないためか、それとも込み上げる様々な感情を打ち消してしまうためだろうか、彼の声は大きく響いた。応援席がざわついて、皆の視線は一箇所へ集中する。今ここで人物の指名がされるということが何を意味するか、誰もが知っているからだ。
放送委員のよく通る声が読み上げた借り物競争のルールによれば、多くあるお題の中で「好きな人」だけが人物の指定なのだった。
好奇の視線と両脇に座る友人に追い立てられるようにして、は名前も知らない男子生徒の前に進み出た。ジャージの色から同じ学年であることはわかったけれど、クラスすら把握していない。
どうしてわたしなんだろう。思わず縋るように振り返ろうとして、再び名前を呼ばれてしまった。はい、と返事をしながらもの意識の半分は後ろの応援席――その一箇所、あるいはたった一人――に残っている。走るだけなら構わない、これがなんでもないお題だったら、そう思わずにはいられなかった。
「俺と一緒に走ってください」
答える前に彼はの手を握っていた。借り物を求めてやってくる生徒たちが眼鏡や水筒などを手にしては、好奇の目を投げながら走り去っていく。
「え、ええと、」
走るだけなら、構わないのだ。ただその後に起こるだろうあれこれを考えるとどうしても億劫でしかなかった。億劫、の一言で済ますにはいささか薄情かもしれなかったが、のそのままの気持ちを示すならその言葉に尽きる。は彼の気持ちには応えられないし、応える気もなかった。
困惑を顔に浮かべたまま動こうとしないに、彼は焦れたように手を引いた。そのまま連れ出されかけたの体は、しかしそれよりも強い力で後ろへ引き戻される。彼の手から、の腕がするりと抜け落ちた。
「悪いけど、こいつはおれのなんで」
振り向かなくたって誰なのかわかる。それでもは振り向いたし、いつの頃からか見上げなくてはならなくなった出水の顔を見つめた。涼しげで少し勝ち気な表情は悔しいくらいにいつも通りの出水だったが、の胸の下に回された腕は力強く、確かな感情を伝えている。背中に感じる体温が、いつもよりあつい気がした。
Up:2018.05.22
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