おとしだま

 眉間に深い皺を刻みながら、茨は一心にキーボードを叩いていた。腹の底で蜷局を巻く怒りや悔しさを叩きつけるように、その打鍵には力が入っている。デスク上に広がった資料をばらばら捲ったり、タブレットの画面を確認したりと手元を忙しくして、同じくらい頭の中もフル回転させて。そこまでしてようやく、湧き上がる感情を飲み込むことができたから。仕事に打ち込んでいなければ、感情にまかせて叫び出してしまいそうだったから。
 茨にとって暦なんてただの数字だ。年始がなんだ。正月がなんだ。労働基準法も雇用主側にあたる茨には関係ない。そもそも俺の人生に正月休みなんてものは存在しなかった。例年通りだ、仕事をしているほうがいっそ落ち着く。
 ダン、とエンターキーを叩いてから、茨はいったい誰に言い訳しているのだろうと己の思考を振り返った。いや、振り返ろうとしてやはり辞めた。そんなことすら時間の無駄である。茨はまた資料に手を伸ばし、それからキーボードに手を乗せる。完璧な計画を、完膚なき勝利を、次こそこの手に掴むために。

 そうしてパソコンと向き合い始めてからどれくらい経っただろうか。デスク上に広げた資料の上に、ふっと濃い影が横たわった。もう夜なのか、時が経つのが早すぎやしないか。ちらりとタスクバーに視線を下ろせば、時刻はまだ十六時前だ。冬は日没がはやいと言ってもまだ一時間ほどある。外の暗さではないらしい。それならなんだ。
 視界の端で、春の新緑のような色がはらりとこぼれた。――いったい誰に言い訳しているんだ。先程切り捨てた問いが、答えを伴って蘇った気がした。
「……さん」
 顔を上げれば、立っていたのはやはり彼女だった。声を掛ける前に反応があったせいだろう、は驚いたように数度瞬いたあと、花がほころぶような笑みを浮かべた。
「お疲れ様です、七種さん。よろしかったらどうぞ。あ、熱いのでお気を付けて」
「はあ……ええと……、これは、どうも? いやそれより、なぜさんがここに?」
 差し出されたのは、茨がよく自販機で買っている缶コーヒーだった。買ったばかりらしく、じっと触れていれば痺れそうなほどに熱い。怪訝そうに見上げる茨に対し、は困ったようにこぼれ落ちた髪を耳に掛けた。
「そのう……、お正月で少し、カロリーオーバーしてしまったので、あの……トレーニングルームに。そしたら事務所に人影が見えたから、七種さんなんじゃないかと思って、来てみたんです」
 やっぱり七種さんでしたね、と微笑んでから、は何かを思い出したように「あ」と小さく声を漏らした。
「そうだ、これも持ってきたんでした。たいしたものではないですが……お年玉、ということで」
 どこかいたずらっぽい笑みをこぼしながら取り出したのは、和紙のような質感の紙袋だった。中を覗けば、大きな飴玉がつまった瓶が入っている。紙袋を少し動かすたび、色とりどりの飴玉がころころと動いた。フルーツ系のアソートらしい。
「お年玉、ですか。自分に?」
「あ、飴がお年玉なんてだめですかね……!? でも、お金をお渡しするのも違うかなあと思って……昔は丸いお餅だったって聞いたので、それで、あの、七種さんはお仕事ですごく頭も使いますし、甘いもので、それに手も汚れないかなと思って……!!」
 わたわたと身振り手振りを駆使して意図を訴えるに、茨はふっと吹き出した。別に論点はそこじゃない。年玉というのは目上の者が渡すものだ。上司に対して渡すのか、という意味で問うたわけだが……。そこまでは考えていないのか、単純に知らないのか。まあ、年齢で言えば彼女の方が上だ。くれるというのなら貰っておこう。
「いえいえ。お年玉なんていただくのは初めてのことですから、驚いただけです。ちょうど、糖分が欲しいと思っていたところですし」
「そ、それならよかったです……! この飴、地元の和菓子屋さんのものなんですがすごくおいしくて、大きいから長く食べられるし、でもいろんな味があるから飽きなくて、子供の頃から好きなんです!」
「貴重な品をわざわざいただいてしまうとは、ありがたいかぎりですな。本当にいただいてよろしいんですか?」
「もちろんです! お嫌いでなければぜひ!!」
 嬉しそうに破顔する姿を見れば、まるで彼女の方がお年玉をもらったみたいだ。いつものことながら、大袈裟なまでな反応が少しむずがゆい。これが紛れもない彼女の本心であろうと、理解し始めているから尚更。
「ええ、ありがたく頂戴いたしましょう! 自分のためにわざわざ持ってきてくださったようですし」
「はい!……あれ、えっ?」
 どうして分かったんですか、とでも言いたげな彼女に、茨はゆるく唇の端を持ち上げる。嘘も言い訳も上手くない彼女にしては筋が通っていたが、彼女の発言にはいくつもの欠陥がある。
「最初からトレーニングルームが目的なら事務所の前は通らないでしょう。トレーニングルームは事務所よりも下の階ですし。明かりがついているならまだしも、ビルの外から事務所の人影の有無に気付けるとも思えません。よって、さんは最初から事務所に来る気があった。缶コーヒーだけでなく、地元でしか買えないような手土産をわざわざ持ってきているのもその証拠です。それに、私服で来ていながら着替えも持っていませんしね」
「わあ……っ、すごいです! なんだか刑事さんみたい!」
「いえいえ、刑事のようなのはさんの方では? 最初から自分が事務所にいると分かっていたようですから」
「そんな! 私はただ、なんとなく……というか。飴を持ってきたのも、七種さんならいるかなって、いたらいいなあって。会えたらいいなって、思って……それだけなんです」
 恥ずかしそうに両手で頬を覆って、は視線を下に泳がせた。本当に会えるなんて、思ってなくて。ぼそぼそとこぼすに、茨は驚いたように目を見開いた。
 こちらがを把握してきたように、あちらにも自分の行動が読まれ始めているのかと、少し警戒していた。しかし蓋を開ければ、彼女の行動の発端はただの願いだ。会いたいと思ったから来てみた、ただそれだけ。予測も計画もない、願掛けのような行動。
「それは……ええと。年明けから運が良いようで、なによりですね」
「はい! 七種さんにお会いできたし、今年もいい一年になりそうです!」
「自分に寺社仏閣のような効果はありませんが……。まあ、あなたがそう感じるなら、そうなんでしょう」
 言葉としては投げやりだが、率直な感想だった。彼女がそう思っているのなら、きっと、本当にそうなるのだろうと思った。
「そうだ、七種さん」
 手ぐしで髪を整え直し、少しかしこまったような表情でこちらに向き直るに、茨も軽く居住まいを正す。なにが飛び出すのかと身構えれば、それはなんてことのない挨拶だった。
「あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」
 は深々と頭を下げ、それから面を上げ、晴れやかに笑う。
「年越しライブのあとにもご挨拶はしたんですけど、でも、せっかく今日会えたので」
「なるほど。律儀なさんらしい。……こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします」
 晴れやかな挨拶に、願掛け、お年玉。彼女の言動から、彼女にとっての「例年通り」の正月が垣間見えるようだった。茨が知らないその形を、ぼんやりと輪郭だけなぞって。――それから、彼女のプロデューサーとして見逃せない一点を鋭く突き刺す。
「ところでさん。カロリーオーバーの件も嘘、ということで?」
「えっっ! っとぉ……それは、あのう…………」
 上手な嘘のコツは真実を織り交ぜることだと、かつて彼女に説いたことがある。であれば彼女の発言には、必ず真実が紛れているはずだった。
「どうなんです」
「すみませんお餅を食べ過ぎましたッッ!!」
「今日は徒歩で帰りなさい。代行は手配しておきます」
「は、はひ…………」
 先程までとは打って変わって、しおしおと肩を落とす姿が妙に笑いを誘う。茨は笑いを噛み殺して厳しい上司の顔を保ったまま、罪人をエレベーターまで送り届けた。




Up:2023.12.02
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