地獄まで
暗闇の中に立っていた。墨で塗り潰したような真黒の闇は、いくら目を凝らせども慣れる気配がない。鼻先に広げたはずの手のひらすらも見えぬほどの漆黒は、本能的な恐怖を呼び起こした。自分の存在そのものを打ち消されてしまうような、そんな恐ろしさがこの空間にはあった。しかしその一方で、またおかしな夢を見ている、と冷静に分析する自分もいた。
息を吸い、それから吐き、己の呼吸を確認する。この呼吸が夢の中の自分のものなのか、実際に眠る自分のものなのかはさておき、呼吸が出来ている。
自分の呼吸の音を聞くうちに、身を圧迫するような闇がいくらか和らいだような気がした。そして呼吸の音だけを拾っていた耳が別種のものを捉え始める。息を潜め、音に集中し、――それが水の流れる音だと判じた瞬間、茨の目の前には川が現れていた。川の周囲だけが薄ぼんやりと光り、その縁には女が一人蹲っている。
「なにをしているんですか」
自然と声が出たことに驚いた。茨にはその女が誰なのか分かっていた。いつもは新緑のように鮮やかな彼女の髪は、この闇の中では鈍くくすんで見える。彼女はゆったりと振り返り、いつも通りに微笑んだ。
「石を積んでいるんです。そうしないとこの川を渡れないから」
彼女の手元にはいくつもの小石が散らばっていた。賽の河原。神も仏も信じてはいないが、知識くらいならある。確か、親より先に死んだ子供が受ける苦ではなかったか。彼女にとって親にあたる祖母はとっくに死に、実母は更に前になくなっている。一応実父は生きているようだが、彼女は元より父親のほうも娘がいるだなんて知らないだろう。本人すら自覚せずとも神仏にはお見通しとでも言いたいのだろうか。夢にしては筋が通っていなくもない。
「川を、渡りたいんですか」
問いかけておきながら、茨は自分が求める答えが分からなかった。夢の中でなにを聞いているのだろうとも思った。茨の中に住む彼女の死生観を確認したところで、なんの意味があるだろう。
「渡りたいわけじゃないんですけど。でも、ここに来たら石を積まないといけなくて。でも、七種さんが来たから、もうおしまいです」
「自分が、来たから?」
彼女は立ち上がり、ゆっくりと茨の背後を指差した。ごうっっと風を切るような音がして、振り向けばそこには炎の海が広がっていた。
「七種さんのこと、待ってたんですよ。だって約束したから」
「……約束」
「地獄に落ちるときは、道連れにしてくれるんでしょう」
まるでハネムーンに旅立つ新婦のように、幸せに満ちた笑顔だった。赤々とした炎が彼女の瞳の中で揺らめき、燃え上がる。
「七種さんと一緒なら、私、どこだって怖くありません」
陶然とすらして見える彼女は、幽鬼のように白い手で恭しく茨の手を取った。さあ行きましょう。その囁きに導かれるように、茨の足はふらふらと炎に向かっていく。
「……さん」
恐ろしかった。彼女の笑みでも、血の通わぬ真っ白な手でもなく、こんな夢を見ている自分が恐ろしかった。
「ずっと一緒ですよ、七種さん」
が振り返り、柔らかく微笑む。背に灼熱を浴びてさえ、彼女の笑みは木漏れ日の下にあるようだった。もしも本当に地獄があって、自分が地獄へ堕ちる時にも、彼女は同じように微笑むのだろう。少なくとも茨には、そうする以外のを想像することが出来なかった。
まったく、地獄へ道連れだ、なんて。あんなセリフ言わなければよかった。
Up:2023.12.02
お題 : 140字で書くお題ったー/「あなたと一緒にいたいんだもん」
お題 : 140字で書くお題ったー/「あなたと一緒にいたいんだもん」
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