「ねーお姉さん、ボクすっごい暇。遊んでよ」
「遊びません」
 ぴしゃりと言い放って、お姉さんはボクの前を素通りした。そのままボクの水槽から繋がれた計器に向かい、画面を覗き込んでは手元の巻物に何やら書き込んでいる。ボクの体を計測したデータ、らしい。
 あの計器が何を計測してるのか、その結果何が得られるのか、ボクは知らない。多分お姉さんも知らないだろう。数値を見たところで表情の変化もないし、全然楽しそうじゃない。たまに来る大蛇丸やカブトは見るからに楽しそうにニヤニヤ笑ってるのにね。そしてよく分からない単語を並べてはペラペラと喋るんだ。その脇で二人の話を聞くお姉さんは、いつもじっと立ち尽くしているだけ。お姉さんは笑わないし、楽しそうにしてることなんて一度も見たことない。お姉さんはボクがこの水槽に入れられてから毎日来てるみたいだけど、いつ見てもしかめっ面。ボクが声をかけても、適当に返したらその後はずーっと無視だ。
 今日だってそう。ボクに見向きもせずにしかめっ面で計器と巻物と睨めっこしてる。記録が終わったらちょっとだけ話に付き合ってくれるときもあるけど、だいたいボクがお姉さんを怒らせて、出て行ってしまって終わり。
「お姉さんさ、それ楽しい?」
「……」
 綺麗に無視された。
 ホント冷たいよねぇ、この看守のおねーさん。



瓶詰め人魚の誘惑




「ねーねーお姉さんってばぁ」
「その間抜けな呼び方をやめなさい」
「でもさ、どう見てもお兄さんじゃないよね?」
「当たり前でしょ」
 呆れたようなお姉さんがちらりとこっちを見る。だけど、すぐに視線は手元の巻物に戻ってしまった。あー惜しいなぁ。今日は珍しくこっち向いてくれたのに、つまんないの。もうちょっと構ってくれてもいいのにさ。
「じゃあお姉さんの名前教えてよ。そしたらお姉さんって呼ぶのやめる」
「教える必要がないわ。そもそも呼ばなくていいの」
「えー、何で?」
 水槽に張り付いてガラスをバンバン叩いたら、お姉さんが鬱陶しそうにこちらを一瞥した。重い溜息。カタリと筆を硯に置いて、机に頬杖をつく。苛々してるときのお姉さんの癖だ。もしかしたらこのまま出て行っちゃうかもしれない。……それは嫌だなぁ。ボク暇になっちゃうよ。明日までまた一人で過ごすなんて、暇すぎて死んじゃうね。
「私は大蛇丸様の部下で、ここの看守。そして君は大蛇丸様の実験体。要するにモルモットなのよ。……ただのモルモットが、どうして私の名前を知る必要があるの?」
 お姉さんは冷たく吐き捨てて、ボクを馬鹿にするように鼻で笑った。
 部下である自分と実験体でしかないボクは身分が違うと、そう言いたいようだった。
 でも、ボクを見下すような言葉もボクを威嚇するような態度も、虚勢でしかないこと、ボクは知ってる。お姉さんはカブトとは違うから。お姉さんは大蛇丸のことを尊敬も崇拝もしていないし、部下であることに誇りを持っているわけでもない。
 お姉さんはあいつらが怖いんだ。大蛇丸が怖くてたまらないから、逆らえないでいるだけ。
「君は大蛇丸様の研究の材料なの。大蛇丸様にとって有用だから、生かされてるにすぎないのよ」
 ──その言葉だって、半分は自分に言い聞かせてるんでしょ?
「大蛇丸にとってはそうかもしれないけど、ボクはあいつのために生きてるわけじゃないよ。ボクにだって目的があるんだ」
「目的?」
「そう。絶対に手に入れたいものがある。いや、絶対に手に入れるんだ。……ボクは生かされてるんじゃない、ちょっと大蛇丸の研究に協力してやってるだけさ」
 お姉さんの虚勢を吹き飛ばすように、自信たっぷりに笑ってみせた。お姉さんはぽかんと口を開けてボクを見つめてる。
その様が可笑しくてもっと笑ったら、お姉さんはムッと眉を寄せて顔を逸らしてしまった。あらら。
 でも、さっきの間抜け面はなかなか面白かったので良しとしよう。

 水槽の中の代わり映えのない毎日、その中のたった一つの楽しみがこれ、看守のお姉さんをからかうこと。怒らせるのが殆どだけど、たまに泣きそうになったり照れたりするから、なかなか面白い。お姉さんが帰ったあとは、「明日はどうしよう」って計画を立てて過ごしているからそれも楽しかったりする。
 でも、一番楽しいのは、いつものすまし返った表情が崩れる瞬間だ。
 昨日とは違う顔をちょっとずつ引き出していくのは、宝箱の中身をひとつひとつ取り出していくみたいでとってもわくわくする。次は何が出てくるだろう、何が残っているだろう。どうしたら取り出せるかわからないとこも魅力的。
 計器や巻物と睨めっこしてるよりも、怒ったり吃驚したりしてるお姉さんの方がよっぽど面白いと思うんだ。
 もっともっと見てみたい。最後の一つまで、残さずに。
「大口叩くのは勝手だけど、実現出来ないなら惨めなだけよ」
「ボクはそんな情けない男じゃないよ、なんなら賭けてみる?」
「モルモットと賭け事なんて冗談じゃないわ」
「だからぁ、モルモットじゃないってば! ボクは水月! 前にも言ったじゃないか!」
 またつまらない顔に戻ってしまったお姉さんに、ボクはがしがしと頭を掻いた。苛々して水槽の水をがぶりと飲み込む。冷たくて顔をしかめた。お姉さんみたいだ。  あーつまんない。面白くない!
「ねえお姉さん聞いてる? ボクの名前は水月だからね、す・い・げ・つ!」
「はいはいうるさい」
「……」
 お姉さんはいっつもこうだ。何度言ってもボクの名前を呼んでくれない。大蛇丸からも聞いてるはずなのに、頑としてボクの名前を呼ばないで「君」とか「あんた」とか、そんなんばっかり。
 まるでボクの名前なんて覚えたくはないみたいで。ボクという存在を認めたくはないみたいで。
 すごく、悔しくて、腹が立つ。
 ボクよりずっと前から大蛇丸のところにいるお姉さん。きっとお姉さんが大蛇丸を恐れる理由が、その時間の中にあるんだろう。お姉さんがボクの名前を呼んでくれないのも、ボクに名前を教えてくれないのも、大蛇丸を恐れているからなんだろ。何度名前を聞いても、二言目には「大蛇丸様の実験体なんだから」って返されちゃうからきっとそうだ。
 お姉さんの意気地無しめ。名前なんて減るもんじゃないし、教えてくれたっていいのに。もう「お姉さん」って呼ぶの飽きてきちゃったよ。
 もちろんボクだって、大蛇丸には散々な目に遭わされた。色々とエグいこともやられたし、正直言って少しだけ怖い。
 ……少しだけだよ、ほんのちょっとだけ。コップ一杯分くらいだ。
 でも、お姉さんが大蛇丸を恐れるせいでボクに冷たくあたるのは、なんだか癪だ。大蛇丸が怖いのはわかるけど、わかっても、面白くない。ボクとは関係ないところでお姉さんの中の評価が決まってしまっているみたいで。大蛇丸に、負けたみたいで。
 今こうして捕まっている以上、大蛇丸には負けてるわけだけど、そうじゃなくてさ。お姉さんの中でボクよりも大蛇丸のほうが比重が大きい。それにイライラするんだ。

 どうしたらボクの存在を認めてくれるだろう。
 どうしたらボクがお姉さんの中で一番になるだろう。

「おねーさん」
「……」
「おねーさんってばぁ」
 お姉さんの表情を崩したい。小さな変化じゃ物足りない。
 頭の中全部でボクのことを考えるくらいにしてしまいたい。
 沸々とお腹の水が煮えるような静かな衝動。今までにない気分。悪くない感じだ。
「ねえ、お姉さん」
 とびっきりの大技ととびっきりの大嘘をかましたら、お姉さんはどんな顔をするだろう。怒るだろうか、焦るだろうか。バカだねって笑うのでもいい。吃驚して泣いちゃうのも悪くないかもしれない。
 宝箱の中身を暴きたい。全部、全部。
「さっきから何? うるさいって言ったでしょ」
「お姉さんがボクのこと無視するからいけないんだよ」
「はいはい」
 片手をひらひら振ってボクをあしらう。その間にも片方では筆を動かすお姉さんに、ボクは抜群に優しい声を出した。
 さあ、何を見せてくれる?
「ボクがお姉さんを、ここから出してあげる」
「……は?」
 筆を持ったまま、お姉さんはこちらを凝視する。硬直、数回の瞬き。沈黙。
 そして短く叫んだと思えば急いで筆を硯に戻した。墨を巻物に零したらしい。ばたばたと半紙を引っ張り出して吸い取ってるけど、多分それじゃ意味ないだろうな。
 今までにないくらいにお姉さんが焦ってる。よしよし、楽しくなってきた!
「だってさ、お姉さんもこんなとこ嫌だろ? だからボクと一緒に逃げちゃおうよ。ね?」
「その水槽からだって脱出できないくせにどうやって逃げるのよ」
 苛立たしげな声をあげるお姉さんは、その巻物は諦めたのか懐から別の巻物を取り出した。
 そして、バカにしたような目でボクと水槽を見比べる。ぴったりと蓋の閉じた瓶のようなこの水槽。毛先一本分、体の一滴だって漏らしてくれない密閉容器。
 いくらボクが水になれると言っても、こうも密閉されちゃ出ることはできない。
 そう、思われてる。
「さっきも言ったでしょ? ボクは研究に協力してやってるだけだよ。その気になったら、こんなの簡単に抜け出せる」
「本当に抜け出してから言って。ハッタリもいいとこだわ」
「へえ、じゃあやってみせてもいいの?」
 水槽のガラスから体を離し、丑の印を構える。
 にやりと笑ってお姉さんを見ると、お姉さんは慌てて椅子から腰を浮かせた。
「ボクの一族はさ、水遁系が得意なんだよね。そして水遁術は水辺において効力を増す」
「……知ってるわよ」
「この水槽は水で満たされてるし、下に繋がれたホースからも常に新しい水が供給されてる。つまり、水はいくらでもあるんだ。……これでもボク、霧隠れで鬼人の再来って言われたんだよ。使える水遁術が水化の術だけだと思う?」
「……」
 丑の印から始まる水遁術。お姉さんも思い当たっただろう。ボクの大先輩も好んで使用していた、水遁・水龍弾の術。龍をかたどった水をぶち当てるって言うシンプルな術だけど、水の量とチャクラ濃度によってはかなりの威力を発揮できる。
「これで水槽がぶっ壊れちゃったらさ、止めなかったお姉さんもきっと大蛇丸に怒られるよねぇ」
「何、言って、」
「そしたらボクと逃げるしかないよね? 大蛇丸に捕まったら何されるかわかんないもんなァ」
「……冗談でしょ」
「どうだろうね?」
 ガタン、と椅子が鳴った。お姉さんが立ち上がる。
 その衝撃で巻物が机から落ちたみたいだけど、それでもお姉さんはボクだけをじっと見つめていた。ついでにデスクライトも倒れてしまった。薄いオレンジに照らされていた机周りが、ふっと影の色を増す。
 薄暗い地下室、光源はボクの水槽の青白いライトだけ。それが反射して、お姉さんの瞳が光る。
「やめなさい」
 落ち着いた風を装っても、全部声に滲み出ていた。お姉さんの動揺が手に取るように分かる。きっとあの頭の中はボクだけだ。いつも計器と巻物を睨みつけてるお姉さんが、今はボクだけをじっと見てる。大蛇丸に怯えカブトに怯えるお姉さんの、今の一番はこのボクだ。
 そのことが、楽しくてしょうがない。
「嫌だね」
 お姉さんがゆっくりと近づいてきた。
 ぼんやりと浮かび上がるようだったお姉さんの輪郭が、はっきりと分かる距離までやってくる。水槽の光がお姉さんの肌に落ちて、すごく不健康そう。おまけに眉を寄せてこちらを見てるものだから、今にも吐きそうな顔に見えた。
 もしかしたら、本当にそれくらい参ってるかもしれないけど。
「お願い、やめて」
 観念したみたいに深く息を吐き出して、お姉さんはボクに懇願した。今までもいろいろとからかっては来たけれど、ここまで表情を崩したのは初めてだと思う。
 楽しくてたまらない、ぞくぞくする。
「ここからは逃げられないわ。だからやめて」
「やってみないとわかんないよ」
「わかるわ」
 ぴたり、と水槽に手が添えられる。お姉さんの手は思っていたよりも小さく見えた。ボクの輪郭をなぞるように、お姉さんがガラスを撫でる。水槽越しのその手が、まるでボクの体に直接触れられているような心地がした。冷たい水が、その部分だけあたたかくなったような。
 そのことにどきりと心臓が跳ねて、思わず印を解きそうになった。誤魔化すように笑みを張り付ける。
「……おねーさん?」
「馬鹿なこと考えるのはやめなさい。逃げるなんて無理よ。あの人は甘くない」
「そんなに大蛇丸が怖い?」
 嘲るように唇を歪ませて吐き捨てた。こうしたらお姉さんはいつだって目を吊り上げるから。怒ってるお姉さんの顔は嫌いじゃない。いつものしかめっ面よりよっぽどいい。
 だけど、今日のお姉さんは怒らなかった。
「怖いわ」
「えっ?」
「私はあの人が怖い。逆らったら殺されるかもしれないのよ」
「……随分と弱音を吐くね、今日のお姉さん」
「今日だけじゃない。私はどんな時だって大蛇丸様に怯えてるわ。いつ殺されるかわからない。いつまで生きていられるかわからない」
 ガラスに添えていた手の平をぎゅっと握りしめ、お姉さんは俯いた。薄い瞼と長い睫が、お姉さんの瞳の色を隠す。頬に落ちた陰が、涙のように見えた。
「ここに捕らわれてる人たちだってそう。次の点呼の時、何人残ってるだろうって。毎朝、見回りに来る度に怯えてる」
「……っ」
 微かに揺れた肩に手を伸ばそうとして、我に返った。
 何してんだろうボク。伸ばしたって触れるわけないのに。息がかかるほどの距離にいたって、ボクにはお姉さんの吐息も匂いもわからない。聞こえてくる声だって水槽越しだ。
 そんなの、もうずっとわかってるのに。
 ボクとお姉さんの間にある、分厚くて硬いガラス。目には見えなくても確かにボク達を隔てる、ボクを閉じこめる檻。これがなかったらボクは自由になれる。この狭苦しい水槽から逃げ出して、刀を集めて、七忍衆を再結成できて、そして。
 お姉さんにだって触れられる。直接触れて、直接声を聞いて、……もしかしたら、こんな地下室じゃなければ、お姉さんはボクの名前を呼んでくれるかもしれない。お姉さんの名前だって教えてくれるかもしれない。
 そんなお姉さんは笑っていればいい。楽しそうに笑ったお姉さんが、見てみたかった。
「お願いだから、大人しくてて」
 ぱたりと瞼が閉じる。長い睫の震えまで見える距離。寄せられた眉に、どうしてか胸が詰まった。今まで見たことのない表情、宝箱からまたひとつを取り出した。そのはずなのにちっとも楽しくなくて、面白くなくて。
 これはいらない。こんなのが見たかったわけじゃない。
「逃げられるわけないの。君だってわかってるでしょ?」
 ああ、そうだよ。わかってる。
 この檻を叩き割れないことも、檻から抜け出す隙間なんてないこともわかってるよ。水化の術も、豪水腕の術も、この水槽には効かなかった。もちろん水龍弾だって試した。結果は今のボクの状況が示すとおりだ。
 たとえこの水槽を抜け出したとして、大蛇丸は甘くない。あいつからは逃げ出せない。そんなこと、身に沁みてる。
「わかったら、もうおかしなことは言わないで」
 お姉さんは溜息混じりに零して水槽から手を離した。
 俯いたままその場に立ち尽くすお姉さんが遠く見える。
 引き留めたいと思ったって、ボクには何もできない。それも、わかってる。いつだってそう。ボクがどれだけ「待って」って言っても、お姉さんは無視してここを出て行ってしまうから。昨日も、一昨日も、その前も、ずーっと。
 ボクがお姉さんに直接触れられることはないし、腕を掴むこともできない。今聞こえてるお姉さんの声も、直接聞いた声とは多分違うんだ。けれどボクは、いつだってこの冷たい水の中で、冷たいガラスに触れて、水に滲むお姉さんの声を聞くことしかできない。
「お姉さん」
「……」
「ねえ、お姉さん」
「……なに」
 お姉さんはゆるりと視線だけ持ち上げた。潤む両目がボクを映す。その色にまた心臓が跳ねて、ボクはごくりと水を呑んだ。いつもより殊更に水が冷たく感じたのは、ボクの体が熱かったからだろうか。
「ボクは死なないよ」
 お姉さんの手があった場所に、重ねるようにボクも手をつく。ほんのりと残っていたお姉さんの体温が心地よかった。
「ボクの方がお姉さんより若いし、それにお姉さんよりも強いと思うんだよね。だからお姉さんよりも長生きすると思うよ。やりたいこともあるし。それを成すまでは絶対に死なない」
「何が言いたいのよ」
「明日も、明後日も、ずーっと、ボクはここにいてあげる。ボクのことは覚えてていいよ。ボクは死なないから」
 にっこり笑って、お姉さんの頭のあたりを撫でるように、ガラスを撫でてみた。本当に触ったわけでもないのに、それだけでちょっとだけ満足。変なの。でも楽しいからいいや。
「だから、ちゃんとボクの名前覚えて。ボクの名前を呼んで。ここじゃお姉さんくらいしかボクの名前を呼んでくれる人っていないんだからさ。いい加減に名前が腐っちゃいそうだよ」
 お姉さんは吃驚したみたいに目を瞬かせて、それからちょっとだけ笑った。初めて見たお姉さんの笑顔はほんのりと苦かったけど、すごく綺麗に見えた。
「本当に、君って名前に似合わずしつこいのね。……水月」
 お姉さんが囁いたボクの名前は、柔らかく水に滲んだ。

人魚の戯れ、真珠の声

海の底にボクを埋めないで。ここにいるボクを見て。じゃないと、狭い海では喉が潰れてしまうから

人魚の戯れ、
真珠の声

海の底にボクを埋めないで。ここにいるボクを見て。
じゃないと、狭い海では喉が潰れてしまうから



Up:2017.06.17
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