髪がハネているのだろうか。それとも白髪でも見つけたのだろうか。言いたいことがあるなら言ってほしい。抗議の意味を込めながら視線を持ち上げて、――はすぐに後悔した。
「どうした?」
「……なんでもない」
どうしたの、と問いたかったのはこちらなのに。出水の表情を見ればなにも言えなかった。柔らかくほどけるような微笑に、あたたかく慈しむような眼差しに、はまだ慣れることができないでいる。
出水が変わったのは最近のことだ。
と、少なくともは思っている。去年から同じクラスの米屋いわく、「隠さなくなっただけ」らしいので、本当はの知らないところで、あの顔をに向けていたのかもしれないけれど。
半月ほど前のことだ。高校に入ってから親しくしている友達に、とうとう彼氏ができた。毎日楽しそうで、けれど友達と過ごせる時間が減ってしまったことが残念で。本部からの帰り、ちょっとした愚痴がてらそんな話になったのだ。
「だったら、おまえも彼氏作れば?」
「そういう問題じゃないよ。だいたい、作りたいからって作れるものじゃないでしょ」
「そーか? 相手選ばなきゃすぐだろ」
なんとも投げやりな言葉に、はムッと眉を寄せた。告白されたらとりあえずで付き合って、数ヶ月で振られてもケロッとしているような出水とは違う。
は語気を強めて「わたしは選びたいの!」とつっぱねた。
「それに、恋人になるとすぐ別れちゃう人が多いじゃん。しかも悪口言ったり全然喋らなくなっちゃったりさ。そういうの、嫌なの。だから彼氏なんていらない」
「へーえ……」
「そういう公平はどうなの? 前は何人か彼女いたのに、最近はさっぱりだよね」
の認識が正しければ、高校に入ってからの出水は二、三人ほど彼女がいたはずだ。しかし高二の夏あたりからそんな話を聞かなくなった。としては変に気遣う必要がなくなるから楽で良いのだが。
「おれがモテなくなったみたいな言い方だな……。好きなやつがいるから、断ってるだけだよ」
「……え」
好きなやつがいる。その言葉に、息が止まりそうになった。思わず足がもつれてバランスを崩し、出水が差し出した腕に掴まって体勢を立て直す。なにやってんだよ、と笑う出水に、うまく笑い返すことができない。
そっか、公平、好きな子がいるんだ。
は呆然と出水の腕を見つめた。自分のものよりも太くしっかりとしている、男の人の腕。今までだって当然のように目にして、触れてきた。なのに、初めてその事実に気付いたような気がする。
はゆっくりと、出水の腕から手を離した。なんの疑問も抱かず触れてきた、頼ってきたこの腕が、急に知らないひとのもののように思えた。
「でもそいつ、『彼氏なんていらない』らしーから。その気になるまで待つしかねーかな」
「そう……」
呆然とした頭でその言葉を聞いて、それから出水が妙に強調した部分を反芻する。
『彼氏なんていらない』
それは、ついさっきが口にした言葉ではなかった――?
はっと顔をあげると、イタズラが成功した子供のようにニヤリと笑う出水と目が合った。まるでの反応を楽しんでいるような表情に、は一気に脱力した。
「からかったの? もう、やめてよね」
熱を帯びる頬を見られないように、は大げさにそっぽを向いた。早鐘を打っていた心臓が緩やかに元の速度を取り戻していく。なんだ、そっか、そうだよね。心臓の裏側で湧き上がったかすかな落胆の色に気付かないふりをして、鞄の持ち手を肩に掛け直す。
「どーせ公平のことだから、彼女とデートするよりランク戦の方が楽しいとか言うんでしょ。だから弾バカって言われるんだよ」
「しょーがねーだろ。楽しいもんは楽しいんだし。あと、さっき言ったことは本当だからな」
「へ?」
「好きなやつとじゃなきゃ、一緒に居てもつまんないって気付いたんだよ」
それだけ言うと、出水はさっさと歩き出した。しばらくポカンとその背を見送ってから、も慌てて後を追う。待ってよ、といつもみたいに呼び止めることができなかった。
なにかが、変わろうとしている。漠然とした恐怖が、の喉に張り付いた。
「おい、手ぇ止まってんぞ」
「は、ひえっ?」
思わずビクリと体が震え、持っていたシャープペンシルを取り落とす。難なく出水がキャッチして、「どっから声出してんだよ」なんて笑い混じりに返された。ありがとう、と感謝を伝えるはずだった唇は、出水の手がのそれに触れたことで思うように動かなくなり、やっぱりまたおかしな声を飛び出させてしまう。
「さっきからどーしたんだよ。変なもんでも食った?」
「そんなわけないでしょ! わたしのこと、なんだと思ってんの」
「なにって、……言っていいわけ?」
の机に肘をついて、出水は意味ありげに微笑んだ。その表情が妙に大人っぽくて、なんだか色っぽくも見えて、は慌てて目を逸らす。小さく咳払いをしてから、あくまで「いつもの幼馴染の二人」の会話になるように明るい声を作った。
「またわたしのことバカにしてるでしょ? そういうことは言わなくていいですー」
「バカになんてしてねーって」
「ぜーったいしてる!」
ふん、と怒ったふりをして、は再び学級日誌に取り掛かる。よし、うまくいった。これでしばらくは出水もこちらを放って置くだろう。またじっと見つめられてしまうのは落ち着かないが、書き上がるまでの辛抱だ。おそらく十分と掛からない。
と、思ったのだけど。
「なあ、」
予想外にも、出水は引き下がらなかった。
つとめて投げやりに「なに?」と聞けば、「ひま」となんとも甘ったれた答えが返ってくる。
「……先に帰っていいよ」
「やだよ。分かってんだろ」
出水が先に帰るわけがないことも、二人きりの時間をやすやすと手放すわけがないことも、もちろん分かっていた。しかしはそこには答えず、「だったら邪魔しないで」とそっけなく返す。
「なんだよ、のけち」
拗ねたような口ぶりとは裏腹に、おそらく微笑んでいることは気配で察せた。まったく、調子が狂うといったらない。この頃の出水は、がどんな反応を返しても楽しそうにしている。
とりあえず話しかけることは諦めたようだが、手持ち無沙汰に日誌の縁を指先でなぞったり、机にこぼれるの髪を耳に掛けてやったりと、今度は触れることでの気を散らそうとしてくる。頬をつつくのはさすがに鬱陶しいので睨みつけたら、なだめるように頭をぽんと撫でてから手を引っ込めた。
負けるな、大丈夫、がんばれわたし。
少しでも気を緩めたらおかしな声を漏らしそうな唇を必死で引き結び、はシャープペンシルを動かし続けた。なにを書いているのかだんだん分からなくなってきたし、何度か誤字を出水に指摘されている。こちらの動揺は筒抜けだろう。それでも無視を続けると、出水はまた手口を変えてきた。
「」
当然答えはしない。出水もそれは分かっていたようで、気にした様子もなくの名前を繰り返した。。ちゃん。さん。丁寧に、うたうように、楽しげに、優しげに、甘く柔らかい声が落とされる。その甘ったるい響きは耳からの中に侵入し、どんどんかさを増していった。このまま放っておいたら、きっとこの声に溺れて死んでしまう。けれど耳を塞ぐこともできなかった。
そんな声で呼ばないで。わたしを、変えようとしないで。
出水がを変えようとするのは、出水が変わってしまったからだ。でも、出水の変化を認めてはいけないし、認めるわけにはいかない。認めたらきっと、あの日の続きになってしまう。
この二週間、こうした場面は何度もあったが、毎度すんでのところで逃れてきた。そしてこれからも逃げてみせる。逃げ切ってみせる。
ここまで来ると半分くらいは意地だったが、ムキになっている部分を除いても、やっぱり出水のペースに乗ってはいけないと、の心は訴えていた。
だって、駄目なのだ。は出水を失えない。
出水がどういうつもりかは知らないが、の考えはあの日言ったとおりだ。は出水の悪口なんて言いたくないし、嫌いになりたくないし、話せなくなるなんて絶対に嫌だ。だから今のまま、ずっと隣にいたいのに。
どうして公平は、分かってくれないんだろう。
きっと出水も同じ気持ちだと思っていたのに。幼馴染というこの関係を、大切に思ってくれていると信じていたのに。どうしてそれを壊そうとするのだろう。ヒビの入りかけた二人だけの世界を、がどんな思いで必死に繋ぎ止めているか、どうして気付いてくれないのだろう。
出水はあの日、「その気になるまで待つ」と言った。しかし生憎とそんな日はやってこない。が出水を手放すなんて、どうあってもありえないことだ。
どうにかこうにか日誌を埋めて、は立ち上がる。黒板に向かいながら「暇なら窓閉めるの手伝ってよ」と言えば、出水も立ち上がる気配がした。
カラカラと窓の閉まる音と、カツカツとチョークが黒板を叩く音。二つを聞きながら、はそっと呼吸を整えた。これから二人で本部に向かう。その道中も気は抜けない。
一度「聞きたい曲があるから」と音楽プレイヤーを出して強制的に会話をなくそうとしたことがある。会話がなければなんとかなると思っていたあの日のは、実に愚かだった。出水はが思っているよりもずっと上手で、「おれも聞きたい」とイヤホンを片方奪ってしまったのだ。そのまま歩こうとするから必然的に距離は近くなるし、一度躓いたら「危なっかしいな」と手まで繋がれてしまった。
あの日が多分、一番危なかった。二度目はない気がする。だからこれまで以上に気を引き締めて――
「なあ」
思考を止めたのは出水の声だった。その声があんまりあっさりと、いつも通りだったから。窓閉めが終わったのかな、なんて軽い気持ちで振り向く。
一瞬前の自省がなんの意味もなさなかったことを、はすぐに悟った。
「……ぁ、」
まっすぐにこちらを見つめる彼の瞳の中で、二人だけのこどもの世界が、ガラガラと音を立てて崩れるのを、見た。
「この間言ったこと、一個だけ嘘にしていいか?」
逃げなきゃと思った。続きを聞いてはいけない。なのに足が動かない。
ずっと先送りにして、先延ばしにして、そうすればなかったことになると思っていた。思いたかった。本当はが上手に逃げていたんじゃなくて、出水が逃してくれていたのだと、気付きたくなかった。
「その気になるまで待つって言ったけどさ。やっぱ、待てねー」
なにを、今更。あんな顔で笑うくせに、あんな声で名前を呼ぶくせに。今更だ。待つ気があったなんて到底思えない。この二週間、隙あらばを変えようとしていた。
変わりたくなんかない。二人の「今」を思い出になんてしたくない。
それが大人になるということなら、は一生子供でいたかった。
でも、子供の時間ももう終わりだ。嫌だと駄々をこねても、泣き叫んでも、出水はもう止まらない。砕け散った世界の真ん中で立ち尽くすしかないに、はたして出水は、どんな最後通牒を言い渡すのだろう。
「だから、おまえも覚悟決めろよ」
「な、んの、覚悟?」
絞り出すようにして発した声は、掠れて弱々しく震えた。出水は言葉を探すように視線を巡らせながら、一歩一歩こちらに歩み寄る。目の前で足を止めるのと、なにかを見つけたように瞬くのは同時だった。を見下ろす出水は、あの大人びた微笑ではなくて、少年らしい、少し照れくさそうな笑顔を浮かべる。
「おれに愛される覚悟?」
「…………は?」
なんだそれは。
「だーかーら、そのまんまの意味だよ!……まさかとは思うけど、おまえ、おれがのこと好きだって、気付いてるよな?」
しばし硬直。は魚みたいに口をぱくぱくさせて、それから数拍後に戻ってきた言葉をなんとか捕まえて出水にぶつけた。
「な、んで、それ! さらっと言っちゃうの!? 避けてたのに!」
「やっぱ避けてたのかよ! 避けんなよ!」
こいつ! とか言いながら、出水はの髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。まるで子供みたいなじゃれ合いに、は目を白黒させる。
「ちょっと、やめて、公平っ!」
「うるせーっ、おれの気持ちを弄びやがって」
「はあ!?」
言いがかりも甚だしい。弄んだのはどっちだ。散々の心を弄したのは出水の方なのに、どうしてが責められなくてはならないのか。は憤慨して出水の手をパシパシ叩いた。ようやく嵐の去った髪を手で撫でつけながら、はキッと出水を睨みあげる。
「なーにワケ分かんないこと言ってんの! 弄んだのはそっちでしょ!?」
「おれがいつ弄んだんだよ! 思わせぶりな態度取ったのはおまえだろ! おれに好きなやつがいるって言ったらショックそうな顔したり、おれと一緒にいると顔赤くしたり、いちいち可愛い顔しやがって!」
可愛い顔ってなんだ!? 言われ慣れない言葉に軽くめまいがする。けれど言いたいことが山程あったので、はぎゅっと拳を握って気を持ち直した。
「じーっとこっち見たり髪触ったり手繋いだり、そうやってドキドキさせてきたのは公平のほうでしょ!? しかも急に大人っぽい顔するし、そんな顔で見られたら、どうしたらいいのか分かんないよ! さっきだって何度も何度もわたしの名前呼んで! 心臓破裂して死にそうだった! なんでそういうことするの!? わたしは……っ」
息が続かなくなって、言葉を切る。大きく吸ってから、のただひとつの願いをぶちまけた。
「公平とずっと、ずっと一緒にいたいだけなのにっ!」
言わなくても分かっていると思っていた。分かってほしかった。ぼろぼろと溢れる涙を堪えることができない。もうカウントダウンは始まっていて、いずれ出水の前でも泣けなくなってしまう。そう思ったら余計に涙が止まらなかった。出水の腕の中で泣いたことも、きっとすぐに思い出にされてしまう。昔すごい泣き虫な幼馴染がいてさ、なんて、の知らない誰かの前で、懐かしそうに目を細めるのだ。
「…………なんだよ」
呆けたような出水の声がして顔を上げた。頬を伝う涙を、出水の親指が拭う。
「おれと同じじゃん」
そのまま引き寄せられて、の体は出水の腕の中に閉じ込められた。背中に回された腕が、優しく、力強くを拘束する。嗅ぎ慣れた匂いがの鼻腔をくすぐった。
「は、へ、えぇ?」
「変な声」
はは、と笑い声が降ってくる。なにがなんだか分からないまま顔をあげると、出水はの額に自分の額を重ねた。
「はさ、おれにじーっと見られるとドキドキして、名前呼ばれると心臓破裂しそうになって、おれとずっとずーっと一緒にいたいんだよな?」
ニヤニヤと笑いながら額を押し付けてくる出水に、は半ばやけっぱちのように肯定した。
「そ、そーだよ。悪い?」
「いや、ぜーんぜん。……じゃあさ、男と女が、ずーっと、それこそ死ぬまで一緒にいるには、どうしたらいいと思う? ヒントはおまえの幼稚園の頃の夢」
急になんのつもりだろう。なぞなぞだろうか? 怪訝そうに眉を寄せるを放置して、出水は「じゅーう、きゅーう」と数を数え始めた。は慌ててヒントを頼りに考え始める。
「……お嫁さん?」
「せーかい。んじゃあお嫁さんになる前は? 夫婦の一個手前ってなんだ?」
「えーっと……婚約者?」
「じゃあもう一個手前」
「恋人?」
答えてから、は「あっ」と小さく息を呑んだ。
――砕け散った世界の外に、はたった一つの光を見つけた気がした。
「よーやく分かったな、この鈍感」
出水は体を離して、の瞳を覗き込む。涙ぐんだの目に、出水の姿はいつもよりきらきらと光を纏って映った。出水の後ろには、教室の窓に切り取られた青い空が広がっている。
「さーて、さん。覚悟、できた?」
覚悟って……覚悟って、そういうこと?
踏み出したら最後だと思っていた。ただ終わりまで、下り坂を転げ落ちるだけなのだと。
でも、そうではないのなら。この先もずっと、この手を離さない覚悟なら。
「そんなの、ずっとできてる」
今度はから、出水の腕の中に飛び込んだ。ぎゅっと腕を回して、隙間なんてないくらいにぴったりと抱きしめる。出水の速い鼓動が伝わって、ああ、とは息を吐いた。
「やっぱナシって言っても、もう遅いからな」
「言わないもん」
二人して願いは一緒だったのに、なんだか遠回りしてしまった。きっと笑ったら出水は怒るから、今はやめておこう。
数年も経てば、二人で笑い合える思い出になる。なにを過去に置いてきても、振り返るのが出水と一緒なら、なにも怖いものなんてなかった。
ロマンチックハレーション
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