その夢物語のような噂を、出水も本気で信じていたわけではなかった。
 聖杯。あらゆる願いを叶える願望機。それを勝ち取るために行われるちいさな戦争と、人の身にあまるその戦いを代行する、サーヴァントという強大な使い魔の話。
 どうせ、ただの噂だ。
 幾度となく言い聞かせ、それでも出水は今夜、警戒区域の中を一人歩いている。出水が目指すのは廃駅近くの公園だ。防衛任務の巡回ルートに掠らず、本部からも市街地からも距離があり、ある程度開けた場所。その条件に合致したのがそこだったのだ。
 人が立ち入らなくなって数年経つ公園はどこも草木が伸び放題だった。つめたい月明かりだけが落とされた荒れ地はどこか不気味で、木々の大きな影や、ブランコやシーソーの細く長い影が、なにかとても恐ろしい生き物のように思える。夜風が木々や遊具を揺らすたびに立てる音は、まるでそれらの鳴き声だ。真夏の生ぬるい風が肌に張り付き、気味の悪さをより掻き立てた。
 手に滲んだ汗を誤魔化すように、出水はぎゅっとバックパックの紐を握る。どくどくと鼓動を速めるのは、しかし夜への恐怖ではなかった。そんなもので揺らぐようなら、今宵出水はここに立っていない。
 公園の入口に手頃なベンチを見つけると、出水は表面の砂埃を軽く払ってからバックパックを下ろした。中から取り出したのは古びた本と、数本のペットボトルだ。五百ミリリットルのボトルはどれも青白く発光した液体で満たされている。
 しおりを頼りに本を開き、ベンチに置いたバックパックに立てかける。手前にいくつかペットボトルを置けば、液体の光で本の中身がよく見えた。出水はボトルを一本手に取ると、ひとつ深呼吸をしてからそれを開封した。

 本に記されていた図形、魔法陣を公園の地面に描き終わる頃には、出水の額にはうっすらと汗が滲んでいた。それをTシャツの袖で乱暴に拭うと、本を手に取って違うページを開く。もうペットボトルの中身は使い果たしてしまったので、スマートフォンのライトで本を照らした。何度も頭の中で唱えた呪文を、ゆっくりと目で追っていく。
 魔法陣は用意した。召喚の呪文も覚えた。特定の使い魔を引き当てるには触媒となるものが必要だと言うが、出水は用意しなかった。
 本当に何者かを喚べるのであれば、それがなんでもよかった。召喚に成功するということ、それこそが、あの「噂」が真実であることの証明なのだから。
 聖杯。それは手にした者のあらゆる願いを受け入れ、その望みの具現を所有者へと注ぐという。手にしさえすればどんな悪辣な願いでさえ、どんな些細な願いでさえ、必ず叶えてくれるのだと。
 数年前の出水なら、ゲームとかによく出てくるやつか、なんて流しただろう。神話や伝説に登場する魔法のアイテム。勇者が冒険の果てに手にするボーナスのようなもの。テレビの中のヒーローに憧れる子供ならいざしらず、高校生にもなってその存在を本気で信じる者は少数派だ。
 それでも今の出水が、そんな夢物語のアイテムの実在を否定しきれなかったのは、まるでゲームの世界のような超常に彼自身が身をおいているからに他ならない。
 異世界からの侵略者、そしてそれらから街を守る組織。非日常が出水の日常になってから五年が経った。子供の頃に憧れた「ヒーロー」に限りなく近しいものが出水の職業になって、四年足らず。
 そして、出水の「日常」の一部が欠けてから、半年が過ぎた。
 一種の超常を知っていることだけが、今夜の動機ではなかった。叶えたい願いがあったのだ。どうしても叶えたい願いがあった。ボーダーの科学力、技術力、すべて注いでも叶えられなかった。取り戻すことができなかった。近界の技術でもおそらく不可能であることは、近界から来た少年を見れば明らかだ。
 手のひらに収まる小さなモノに変わり果て、モノとしての名を与えられ、ただ最後に願ったひとつさえも遂げられない。彼女のそんな末路を変えたかった。どんな願いも叶える聖杯が、真実存在するのであれば、出水の日常の中心にいたあの少女を、世界でたったひとりの幼馴染を、この世界に連れ戻したい。そして、今度こそ――。
 出水は魔法陣の中に立つと、深く、深く呼吸した。どうせ、ただの噂だ。もう何度言い聞かせたかわからない。期待するなよ。きっと誰かの作り話だ。トリガーなんてもんがあるから妙に信憑性が増しただけで、あんなものを本気にするなんてバカのすることだ。
 信じちゃいない。信じるわけがない。そう言い聞かせながらも魔導書を探し当て、エンジニアに頼んで液体状のトリオンを調達し、こうして真夜中に家を抜け出している。分かっている。自分の愚かさなんて、誰よりも出水自身が分かっていた。
 だからこそ、試す必要があるのだ。こんな幻想のために時間を無駄にするのは、今日で終わりにする。終わらせる。
 ゆっくりと目を閉じ、それから開いて、闇夜に明るく浮かび上がるような魔法陣を見下ろした。未練を捨てる。執着を捨てる。そのためには、完璧にやり遂げなければならない。
 静かな夜の公園に、緊張でかすかに震える出水の声が落とされる。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
 魔法陣の光が、徐々に強くなっている――気が、した。大きな音を立てて木々が揺れている。かなり強い風が吹き付けているはずなのに、不思議と魔法陣の内側に風はない。
 なにかが、起こっている。足元から熱ともしびれともつかないものがじわりと昇り始めた。
 ……まさか。途切れそうになった気を持ち直し、出水は詠唱を続けた。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
 青白い光が真っ赤に変わる。足から昇る衝撃はいまや全身に満ちて、少しでも気を抜けば体がばらばらに弾けてしまう気がした。指先がしびれて本がうまく持てない。真っ赤な光が瞳に刺さるようで、ろくに文字も追えなかった。けれど。
「――告げる」
 頭の中で何度も何度も唱えたのだ。こんなところで、間違えるはずがない。間違えるわけがない。間違えるわけには、いかない。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に」
 陣の中央からぶわりと風が舞い、出水のシャツがはためいた。詠唱の言葉が進むほどに、その風は強さを増し、密度を増していく。
「聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
 もう体の感覚はなくなっていた。ただ気力だけが出水をそこに立たせ、言葉を紡がせる。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」
 光が弾けた。風が弾けた。同時に、右手の甲に焼け付くような衝撃が走る。吹き飛ばされそうになりながらもどうにか足を踏ん張り、両腕を顔の前にかざして強風を凌いだ。
「……ッ!」
 手にしていたはずの魔導書はどこかへ飛ばされてしまっていた。しかし今、そんなことはどうでもよかった。噂は本当だった。あの噂は、ただの作り話なんかじゃない。真実で、現実で、この願いは、無駄じゃない。
 風がおさまり、周囲に元の静けさが戻ってくる、出水はそろそろと腕を下ろした。そして――そして、目を、見開く。
 光を失った魔法陣の中央に、それは立っていた。黒のライダースジャケットに、オリーブグリーンのショートパンツ。両肩には見慣れたボーダー本部のエンブレムが入っている。
 忘れるわけがない、忘れようがない、それは――彼女の戦闘体。
「はじめまして、マスターさん。サーヴァント・アサシン、あなたの召喚に応じて来ました。わたしのこと、上手に使ってくださいね」
 柔らかい茶色のショートボブを揺らして、アサシンを名乗る少女は、記憶のままの顔で微笑んだ。

ばかみたいな祈りだと思っていた




Up:2019.05.24
photo by Guillaume Le Louarn on Unsplash
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