うつくしきもの

 ゆら、ゆら、かくん。ゆら、ゆら、かくん。
 おれの視界の端で、そいつは必死に睡魔と戦っていた。五時間目の古文はうちの親よりもちょっと年上くらいのおばさん教師で、いつも授業は原文の朗読CDを聞くところから始まる。絵本の読み聞かせみたいな落ち着いた穏やかな声は、かなり強力な睡眠導入剤だ。昼飯後の満腹感と合わされば、そりゃもうてきめんである。
 朗読の声に誘われるようにして船を漕いでいるのは一人や二人ではなかったし、米屋なんかは諦めて机に突っ伏しているらしかった。だからいっつも赤点取るんだぞ、バカ。あいつはしょっちゅうおれを弾バカ弾バカと言いやがるけど、あいつの場合は槍を取り上げてもバカなので始末に負えない。
 米屋に続いて諦めるやつ、睡魔に負けて頭が完全に落ちてるやつもいる中で、斜め前の席に座るそいつは未だに抵抗を試みているようだった。しかし、次第にかくん、と頭が落ちる頻度が上がっている。そのたびにはっと頭を上げて、頬をつねったり首を回したり軽く伸びをしたりして眠気をやり過ごそうとしているけれど、教科書を目で追ううち、やっぱりまた頭がゆらゆらと揺れてくるのだった。それに合わせて、高い位置でひとつに結んだ茶色のくせっ毛がふわふわと跳ねる。
 あ、また落ちた。……おお、粘るなあ。
 古文の授業はおれの中の三大寝落ち科目である。残り二つは英語と日本史だ。英語もリスニングCDが難敵だし、日本史は再雇用のじいちゃん先生がもごもごと喋るおかげで中身がいまいち頭に入らず、集中力が途切れがちになるのだ。
 席替えするまでは出席番号順のおかげで一番前の席だった。寝るとソッコーでバレるから細心の注意を払って寝ていたのだが、今の席は後ろから二番目だ。これで多少は安心して寝落ちできる、なんて油断が生まれたものの、この席になってからのおれは一度も寝落ちしていない。つまりおれと睡魔の戦いは現時点でおれの全勝だ。
 理由? 簡単だ。寝るには惜しい光景が、おれの睡魔を吹き飛ばしてくれるのだ。
 おれの席から黒板を見ようとすると、ちょうどソレは視界に入る。おれの激闘よりも面白い戦いは、今日も開かれているようだ。相変わらずなかなかにアツい試合運びだな。このままあいつが逃げ切るか、それとも睡魔が押し切るか。
 ぱらりと紙を捲る音にはっとして、おれも自分の教科書を捲る。朗読は最後の段落に差し掛かっていた。
 ――にはとりのひなの、足高に、しろうをかしげに、衣みじかなるさまして、ひよひよと……。
 教科書を見るふりをしながら睡魔と戦う背中を盗み見ると、ちょうど左手の甲に預けていた頭がカクッと落っこちたところだった。そしてそのまま、持ち上がる様子がない。いーち、にーい、さーん。かなりゆっくりめのスリーカウント。しかし頭は落ちたまま。……うん、これは寝たな。
 頭の中で、盛大に試合終了のゴングを鳴らす。こーこでがノックアウトーッ! この長い戦いを制したのは~ッ、……睡魔だァーッッ!! 小気味良い調子で実況するのは、ランク戦でもおなじみの武富ちゃんの声である。……あれ、でもボクシングって数えるの十秒だったっけ。三秒はプロレスか? まあ、どっちにしてもあれは起きないだろうから同じことだ。いやあ、いい勝負だったな。解説席に座るのはもちろんおれである。今回のポイントはやっぱり五時間目ってとこだろーな。午前中に体育もあったし。プールって地味に疲れが溜まるんだよなあ、楽しいけど。
 いつの間にか、朗読は終わっていた。先生は黒板に原文を写し終えていて、チョークを白から黄色に持ち替えながら解説を始める。
「美しいという言葉は現代にも残っているものですが、この頃の『美しい』は現代よりもずっと広い意味を持ちます。綺麗という意味の他に、愛おしいとか、可愛らしいとか、立派であるとか。今回の『うつくしきもの』では……」
 先生の解説を赤いボールペンでノートに書き入れていく。
 これが終わると生徒に現代語訳を答えさせていくのだが、大抵指されるのは日付と同じ出席番号だ。今日の日付は五日。そして五番の生徒はの三つ前の席だ。
 おーっとぉ、選手、ダウンしたまま起き上がらない! このままでは寝ていることが先生にバレてしまう! 選手、絶体絶命か~ッ!? 再び脳内の実況席には武富ちゃんが座っている。ギャラリーの懸命な呼びかけは届かず、はマットに沈んだままだ。おれはコーナーから立ち上がり白いタオルを手に取る。もう試合は決しているのだ。はやくこいつを投げ入れてやらなければ。……いつの間にか解説からセコンドに変わってるな、おれ。まあボクシングかプロレスかも適当だしいいか。
 どっちにしても、現実にタオルを投げつけるわけにはいかない。代わりにノートの角を破ると、「おきろ」と乱暴に書き入れて小さく小さく畳んだ。小指の爪の半分くらいになったその紙を、先生が背を向けたタイミングでの頭へ投げ飛ばす。紙は綺麗な放物線を描いての後頭部へ落下し、そのまま転がり机の上に落ちていったようだった。一応当たった衝撃は感じたようでぴくりと動いたものの、覚醒には至らない。おれはまた紙片を二つ切り取る。一つには「もうすぐ」、もう一つには「あたるぞ」と書き入れて、さっきと同じように折り畳んだ。
 タイミングを見計らって一つ投げ、少し間をおいてもう一つ投げる。さーて、これでもダメなら消しゴムちぎるしかねーかな。でもこれ、買ったばっかなんだよな。
 他に手頃なものはないかと筆箱を覗き込んだとき、の頭がむくりと持ち上がった。前の席のやつが指されて立ち上がったから、その音で起きたのかもしれない。
 ったく、ひやひやさせやがって。
 ようやく目覚めたは軽くあたりを見回した後、ごしごしと目を擦っている。あーあ、それやるなっての。寝ぼけて擦るとまつ毛入るぞ。
 そういえばこの前、目薬切らしたって言ってたけど、あいつ買ったんだろうか。高校生にもなってうまく目薬が差せないから、は常人の三倍のスピードで目薬を消費する。
 念が通じたのか、はすぐに目元から手を離したようだ。おれが投げた紙切れに気付いたようで、少ししてくるりと振り向いた。
 あ、り、が、と。
 口の動きだけでもそう言っているのが分かった。いまだ眠そうなふにゃっとした笑みを浮かべて、は軽く手を振る。
 こ、く、ば、ん、み、ろ。
 前を指差しながらおれも口パクで答える。解説の部分はさっさと写さないともうじき消されてしまう。だいたい、前のやつが指されてんのに振り向くバカがいるか。バレるだろーが。
 は分かっているのかいないのか、やっぱりふにゃふにゃした顔で頷いた。すげー眠そう。大丈夫か、あいつ。おれの心配をよそに、指されたは思いの外しっかりした様子で立ち上がった。スカートの裾を片手で直し、軽く咳払いしてからノートを読み上げる。
「大きくはない殿上童が、立派な着物を着せられて歩いているのも、可愛らしい。可愛い幼児が、ちょっと抱いて遊ばせて可愛がっているうちに、しがみついて寝ているのも、たいそう愛らしい」
 誤訳という誤訳もなく、先生がいくつか補足を加えただけでの番は終わった。根は真面目なので予習はしっかりやっている。睡魔に負けさえしなければ、授業中のあいつに心配なところはなかった。
 だからこそ、睡魔と格闘しているあいつが目に入るとどうしても観戦してしまうのだが。おかげでおれは目が冴えるので、今後も適度に格闘してほしいものだ。
 終業のチャイムが鳴った。先生が慌ただしく宿題のプリントを配り始める。
「みんなが思う『うつくしきもの』を十個挙げてみてください。現代語でも良いですが、頑張れる人は古語に挑戦してみてね。次の授業の最初に回収するから、忘れないように」
 きりーつ。週番の号令に合わせて立ち上がりながら、プリントを畳んでノートに挟む。
 うつくしきもの。かわいらしいもの。
 自然とおれの目はの後ろ姿を捉えていた。週番の声に合わせて、がぺこりと頭を下げる。見慣れた尻尾のような髪がふわふわ揺れる。かわいらしい、もの。
 ……いや、いやいや。おれの席は窓際にあって、の席はおれの斜め前で、だから教卓の方を見れば勝手にの姿が視界に収まってしまうのだ。今のはを見たんじゃない。先生の方を向いただけだ。そうだ、そうに決まってる。
 おれは教科書を乱暴に閉じると、ノートと一緒に鞄に突っ込んだ。次の教科の用意をしながら、近くの席の女子と喋っているの横顔にちらりと視線を投げてみる。実はさっきちょっと寝ちゃってさ。恥ずかしさを誤魔化すように笑いながら、も机を片付けていた。おれが投げた紙くずは、筆箱のポケットにそっとしまわれている。
 ……まあ、十個のうち一個くらいなら、挙げてもいいかもな。例えば寝起きのぼんやりした顔。例えばおれを見つけて嬉しそうに笑う顔。唐揚げを食べる時の幸せそうな顔とか、ランク戦で勝った時の得意げな顔とか、絶叫マシンを前にした時のわくわくした顔とか。困ったことがあるとすぐにおれに頼ってくるとこなんかも、あと、それから――……。
 一個くらいのはずが、候補が次々と浮かんでしょうがなかった。思考を止めなければ、十個なんて余裕で埋まってしまいそうだ。今まで真面目に考えたことなんてなかったのに、いざ考え出したらキリがない。そのことに驚いて、おれは思わずから目をそらした。こんなにのことばっかり考えてどうすんだよ。つーか、考えたところで書けねーっての。
 やっぱり、のことを書くのはやめにしよう。もっとなにか、犬とか猫とか、そういうのでいい。そういうのが、いい。
 それになんとなく、……誰かに教えてしまうのは、惜しい気がした。



Up:2018.11.19
twitterタグ #お相手視点で夢主を描写する
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