その日はバケツを引っくり返したような土砂降りだった。まるで映画のようなシチュエーションだ、と乾いた笑みが零れ落ち、深い溜息ごと激しい雨音にかき消されていく。仮眠室の窓を叩く雨は一向に弱まる気配を見せないが、予報だと朝には晴れるそうだ。しかし冷たい窓に額を押し当ててジッと雨音に耳を傾けるには、この雨が止むことも、朝が来るということすら、信じられない思いがした。
 壁に掛けられた時計の針は午前二時を指していた。一度意識すると、雨音に紛れていたはずの秒針の音がいやに耳につく。一定のリズムを刻む時計の音と雨音は一切重なることなく、バラバラと真っ暗な部屋に積もっていった。
 眠気は確実にの足元に忍び寄っている。初めての遠征帰り、深夜の帰還。身も心も、疲れていないわけがない。それでも一向に瞼を落とすことができないのは、眼裏に蘇る真っ赤な色のせいだった。顔に飛び散った生ぬるい温度を、思い出してしまうせいだった。
 此度の遠征で、彼女は、初めて、なにかを殺した。自分たちと似た姿をして、切り裂けば真っ赤な血を流す、異界のなにかを、殺した。
 殺した。その事実を反芻するたび、胃がぐるぐると暴れだす。遅い夕食として摂った食堂の唐揚げ定食はすっかり吐き出してトイレに流してしまったのに、まだ足りないというように空の胃袋は主張を激しくした。吐き気を紛らわせるために深く呼吸を繰り返しても、脳裏に張り付いた事実が薄れることはなく、激しい雨が流してくれることもない。
 息を、する。息をしている。のこの体は、生きている。トリオン体ではなく、切り裂けば鮮血の滴る生身の体だ。が切り裂き、殺めたものと、同じ体だ。
 また胃がぐるぐると疼き出し、吐き気が喉の奥まで迫ってくる。きつく歯を食いしばって飲み下し、必死で息をした。吸って吐いて、吐いて吸って、吐いて吐いて、吸って、吸って吸って吸って、吸って吸って吸って吸って吸って、――。
 勢いよく咳き込んで、ぐらりと体が床に倒れ込む。吐いて、吸って、生まれてからずっと繰り返してきたことがうまくできない。今までどうやって呼吸をしていたのか思い出せなくなる。胸元まで追い返していた嘔気が一気に迫り上がり、そのまま咳とともに吐き出されてびちゃりと床を汚した。
 ぐわんと遠のきかけた意識の中で、は控えめなノックの音を聞いた、気がした。雨音に紛れてもおかしくないほどに小さなその音は、間を置いてもう一度聞こえる。気のせいでは、ない。きっと、たぶん、ああそうだ、これはの願望が生み出す音ではない。三度目のノックでようやく確信すると、は手負いの獣のようにのろのろと身を起こした。床に転がっていたティッシュの箱を引き寄せ、口元と床を乱暴に拭うと、ずるずると這うようにドアを目指す。
 ドアに凭れて座り込んだ状態のまま手を伸ばし、カチリとボタンを押せば音もなくドアが横へ滑った。支えを失って傾きかけた体は、ノックの主に難なく受け止められる。それはが願ってやまなかった体温だった。
「ひでー顔してんな。でも、思ってたよりはちょっとマシ」
 出水が小さく笑う気配を耳元に感じて、全身の強張りがゆるやかにほどけていく。そもそも、ずっと身を強張らせていたことすら、は今の今まで気がついていなかった。
「立てるか? 無理なら担いでくけど」
「……ん」
 応えるように出水の首に両手を回せば、彼は「はいはい」と苦笑気味に言ってを抱き上げた。そのまま部屋の中に入ると、ベッドサイドの小さな暖色のライトを点けての体をベッドに座らせる。自分も隣に腰を下ろし、肩を引き寄せての頭を自分の肩口に押し付けた。そのまま慣れた仕草での頭を撫でながら、出水はごく自然なトーンで話し始める。
「小学生ん時さ、たしか三年の夏休みに、姉ちゃんと母さんとおばさんとで映画見に行っただろ。あん時直前におまえがトイレ行きたいーって言い出してさ、仕方なくおれがついてってやったの」
「……うん」
 その日のことならもよく覚えていた。当時ヒットしていた海外のアニメ映画を見に行ったのだ。しかし上演の直前も直前、館内のライトがふっと落ちた瞬間にが尿意を訴えた。の母が同行しようとしたものの、座席の並びと通路の位置関係もあって「じゃあおれがついてってやるよ」と立ち上がった出水にそのまま任されることとなった。
 トイレは無事に済み、あとは急いで席へ戻るだけとなった二人だが、薄暗い廊下ではたと気付く。市外の大きなショッピングモールに併設された映画館は五つのスクリーンを有している。数字が振られた五つの出入り口のうち、自分たちが戻るべきはいったいどれなのか、幼い二人にはさっぱりわからなくなっていた。
「いっそいでトイレ来たからどこ戻ればいいのか全然わかんなくてさ。周り暗いし、貼ってあるポスターなんかもだいだい同じだから余計わかんねーし。そんで適当に入ったとこがちょうどおれらの席っぽいとこ空いてて、座ってんのも母さんたちと雰囲気似てたんだよな。もう始まってたから黙って座って、なーんだまだ予告か、よかったーとか思ってたのに」
 売店で買ったパンフレットの明るい色彩とは似ても似つかぬ薄暗い画面。そもそも映っているのはアニメ映像ではなく実写の人間だった。いつまで予告は続くのだろう、いったいいつになったら本編が始まるのだろうと顔を見合わせた二人だったが、本編ならもう始まっていた。本来二人が戻るはずだった三番スクリーンの隣、四番スクリーンの上映作である邦画ホラーが。
「あれほんっと怖かったよな。こないだたまたま思い出してさあ、映画のレビュー見てみたら評価は結構まちまちで、今見返したらもしかするとそんな怖くないって思うのかもしんないけど。でもおれらライオンとかシマウマが歌うの見に来たのに呪いのビデオみたいなの始まったら、普通にビビるよな。おれ泣きそうだったもん。つーか多分泣いたと思う」
 多分などと濁したけれど、出水は自分がはっきりと泣いたことを覚えていた。肘掛けに置かれた手を握ったのも出水からだったし、本当はすぐにでも飛び出したかった。けれど隣のはじっとスクリーンを見つめてぴくりとも動かず、怯えるそぶり一つ見せないものだから、八歳の出水は必死になって堪えたのだ。が平然としているのに、自分だけが泣き言を漏らすのは格好悪いと思ったから。
「でもおまえはふっつーの顔して見てて、マジかよって思った。おまえって昔から絶叫マシンとかすげー好きだったじゃん。おまえのおかげでおれもだいぶ慣れたけど、最初はちょっと怖かったし……こういうのも得意なのかーって、すぐ納得はしたんだけど」
 しかし次第に、の様子がどうにもおかしいと気付き始めた。大きな音が鳴ったり脅かすような演出があってもはぴくりともせず、瞬きも一切しないのだ。まるで人形のようなその姿に出水は一気に血の気が引き、反対隣に座るはずの姉に助けを求めようとして、目を見開く。姉だと思った人影は、姉ではなかった。もちろんその奥に座るはずの二人の人影も、よく見れば母親たちとは似ても似つかない。流れる映像の恐怖に思考が凍り付いていたため、その時までは気付きもしなかったのだ。自分たちがスクリーンを間違えているということに。
 早くここを出よう。だってここは違うスクリーンなのだ、この映画の恐怖から逃げるのではなく、単純に間違えているという理由で、ここから速やかに出るべきだ。出水は小声でに耳打ちしたけれど、はやはりうんともすんとも言わない。血の色に染まったスクリーンの光がどろりとの顔に落ち、真っ赤に照らすのがひどく恐ろしくて――出水はの手を掴んで引きずるように四番スクリーンを飛び出した。
「あの時のお前、目開けたまんま気絶してたんだよな。廊下のベンチみたいなことまで引っ張ってったら、やっと瞬きしてさ。『あれ、ここどこ?』って。それ聞いてマジで気ぃ抜けたわ」
 その後は上映が終わるまで、ずっとベンチで過ごした。とてもではないが他のスクリーンを覗きに行く勇気は湧かなかったし、どうせ元のスクリーンに戻れたとしても映画は途中からになってしまう。だったらもう、ここで母たちを待とうと、二人は互いの手を握りしめたまま恐怖を紛らわすためにあれこれとりとめのないことを話し続けたのだ。
「おれもさ、今日、なんか寝れなくて。んでぼーっとしてたら、急にこの時のこと思い出したんだよ。おまえ遠征艇でもこっち戻ってもフツーにしてるし、平気な顔で唐揚げ食ってて、すげーなって思ってたんだけど。……もしかしたら、また目開けたまま失神してんじゃねーかなーって思って」
 さすがに失神したまま飯は食えねーか。はは、と出水が笑うのに合わせて、も小さく笑った。ひどく弱々しい笑い声ではあったものの、それは確かに心の底から滲み出た、作りものでない笑みだった。
「公平」
「ん?」
「きてくれて、ありがと」
 出水の鎖骨のあたりに頬を押し当てたまま、は小さく呟いた。血の気が引いて紙のように白かったの顔色が、今はずいぶんとよくなっている。
「おー。少しは眠れそう?」
「うーん……もうちょっと、かなあ」
「いーよ。寝るまでいてやるから。あーけど、先に寝落ちしたらごめん」
「あはは、いいよ、それでも」
 ただ隣にいてくれれば、それだけでいい。嗅ぎ慣れた出水の匂いと心地よい体温がそばにあれば、きっと瞼を下ろしても恐ろしい赤色が視界を埋めることはないだろう。鉄さびの匂いも、生ぬるい温度が蘇ることもない。そして出水の呼吸がそばにあれば、はいつだって自分の息を取り戻すことができるだろう。
「じゃあ一応布団入っとくか? 寝ると冷えるし」
「そうだね。狭くないかなあ」
「頑張って詰めりゃなんとかなるだろ。あ、枕半分貸して」
「うん」
 肌触りが良いとは言えない毛布の中でぴったりと身を寄せて、二人は瞼を閉じる。毛布と出水の体温に包まれれば、眠気がじわりと目の奥に滲んだ。
「おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
 程なくして出水からは規則正しい寝息が漏れ始める。出水は今回で数度目かの遠征だが、に比べて慣れてはいても疲労が軽くなるわけではない。
 それでも、来てくれたのだ。そのことが嬉しくて、胸がいっぱいで、はもう一度囁くように「ありがとう」と口にする。応えは当然なかったけれど、穏やかな寝息がそばにあるだけで充分だった。
 息をする。吸って、吐いて、また吸って。出水の呼吸のリズムに自分のそれを重ねれば、眠りはすぐそこだった。
 もう、雨音は聞こえない。

眠れよ眠れ やすらかに




Up:2018.07.23
title by as far as I know
photo by reza shayestehpour on Unsplash
- Back -