ローテーブルに置かれたスマートフォンと、揃いのメーカーのスマートウォッチ。男がそれで全部かと問えば、ソファの上で身を硬くしていたはこくりと頷きを返した。
「こいつは茨の坊やから支給されたもんだろう。個人用のものがあるんじゃないのか?」
「ありません。私用と分けるほど、知り合いが多くないので」
 男はソファに背を預けながら、対面に座るの様子をじっくりと検分する。彼女の瞳には怯えがあったが、嘘をついているようには見えなかった。演技で誤魔化している可能性もあるが、この女の性格からしてありえないだろう。女は今、逆らえる状況にない。命よりも大事なものを、目の前の男に握られている。
 男は短く息を吐くと、身を起こしてローテーブルに手を伸ばす。可愛らしいケースに収まったスマートフォンは、男の無骨の手には不釣り合いだ。中身を確認してから男が機器を懐におさめると、はいくらか安堵したように肩の力を抜いた。
「これで、私たちは予選を突破できるんですね」
「ああ。『DryaDドライアド』は予選を突破する。『SS』運営委員会長として保証しよう」
「その『DryaD』は、コズミックプロダクション所属の、私と生明あざみ妃芽佳ひめかからなるユニットですよね?」
 念押しするに、男はふっと唇の端に笑みを浮かべた。騙されやすく御しやすい愚者のように見えて、意外と用心深いところもあるものだ。まあ、いくら毛を逆立てて警戒心を露わにしたところで、子猫の唸り声程度の可愛いものだが。
「もちろんだ。同姓同名の別人、なんてことも言わねえよ。てめえらは『DryaD』として、このSS予選を突破する――それがてめえに提示した条件だ。その代わり、てめえは俺の召集にいつでも応じ、俺の言いなりになる。そして今からは、連絡手段の全てを放棄し、俺の用意した鳥籠に収まる」
「……はい」
 この『SS』予選会が始まり、『DryaD』のリーダーとしてに言い渡された『裏指令』は、いつでもこの男の召集に応じること、男の命令に逆らわないことだった。予選会が始まって一日二日は大人しいもので、自身もその『裏指令』の存在をなかば忘れかけていた。というよりも、忘れてしまいたかった、と言うほうが正しいかもしれない。
 しかし数日経った今日、とうとうその召集がかかってしまった。朝から続く地方行脚にライブを終え、やっと眠りにつけると旅館の布団に身を横たえたところで、ホールハンズに見知らぬ人物からの連絡が入ったのだ。それが『ゲートキーパーこの男』からだと察せないほど鈍くはない。は庭を散歩してくると言い置いて、着の身着のままで指示された車に乗り込んだ。
 に課された罰は、「茨の社会的抹殺」。ためらっている余裕はなかった。
「私はあなたの言うとおり、ちゃんとここに来ました。だから、ひめちゃんは……生明妃芽佳は、これからも、予選会の活動をしてもいいんですよね」
「ああ。そっちは制限を掛けてない。好きにすりゃあいい」
「よかった……」
 ほっと溜息を吐いて胸をなで下ろすに、男は嘲るように鼻で笑った。
「相棒のことばかり心配するとは、随分と余裕があるみてえだな、ええ? そもそもこの『DryaD』は、てめえを主体にしたユニットだろう。生明妃芽佳は今回の『SS』に出場するため、なかば急ごしらえで追加したようなもんだ。てめえ抜きのライブで何ができる?」
「確かに『DryaD』はもともと私一人のユニットでした。でも、それは最初から期間限定と決まっていたし、いずれ人を増やすことも決まっていました。あの子は間に合わせのメンバーなんかじゃない。時間を掛けて選ばれた大切な私の仲間で、ひとりのアイドルです。私がいてもいなくても、あの子のやるべきことは変わらない。ファンの方は必ず、その行いを見てくれます」
 俯いていたが、顔を上げる。怯えの色は消えることはないが、その瞳の奥には、強い光があった。
「それに、あの子には、素晴らしいプロデューサーがついています。あの人がいるかぎり、『DryaD』のライブが失敗することはありません」
「てめえを欠いても、『DryaD』は成り立つと?」
「スピーカーが変われば、音の響きや質が変わることはあるでしょう。でも、元の曲の価値が変わることはありません」
「はは。てめえはただのスピーカーにすぎねえってか。殊勝なこった。……だが、その曲が流れなくなったらどうする? 音が流れなくなればてめえはただの鉄の箱に成り下がる」
「……もし、そうなったら……悲しいですけど。私のその仕事は終わりということでしょう。他の方法で役に立てないか、探すだけです」
「――ふうん?」
 気丈に振る舞う娘に、男は片眉をあげた。今にも倒れてしまうそうな蒼白な顔をしておきながら、それでも己の神への信仰を口にする。なんとも健気な忠誠心だ。それがどこか見覚えがあるようで、……どうにも、気に入らない。
「茨の坊やに死ねと言われたら、そのまま身投げでもするか?」
「! もし、それが……、七種さんにとって、本当に必要なことなら」
「ふん。妄信的にもほどがあるな」
 男はどこか苦々しく吐き捨て、ソファから立ち上がった。薄暗いホテルの一室に男の大きな影が伸び、はびくりと身を縮こめる。しかし男が足を向けたのは、外の景色が切り取られた大きな窓だった。
 海に面したリゾートホテル、そのスイートルームからは瀬戸内海が一望できる。本来なら息を呑む美しさであろうこの景色も、今のにはどこか寒々しく恐ろしい。月明かりが薄ぼんやりと浮かぶ暗い海が、自分を飲み込もうとする巨大な塊のように思えた。
「……」
 冷たく広がる海のような沈黙が、この部屋にも満ちていく。窓の外の薄明かりが男の顔を照らし、冷徹そうな面差しがより怜悧な光を帯びる。鋭い眼差しがどこかを睨み付け、そして伏せられる。
 たったひとりを神のごとく信じ、崇め、すべてを捧げる。自らの命さえ擲つことを厭わない。その姿に、その生き方に、見覚えがないわけがなかった。まるで自分の生き写しのようで、――けれど男のそれとは、まったく違う。
 神のためならどんな手も使い、どこまでも泥に染まり、なにがなんでも願いを叶えようとした、そんな自分とは天と地ほどの隔たりがある。所詮は小娘の考える覚悟だ。小娘が想定できる献身だ。あまりにも生ぬるい。
 神の望むままに天から身を投げる、そんなものでは足りないのだ。地に堕ちて泥に塗れ、泥中で息をしてでも神のために生きる。生きて、神の望みを叶える。その覚悟が、この娘にはない。
 男は振り返り、不安げにソファの上で縮こまるを見下ろした。
「まあいい。俺が戻るまで、てめえにはこの部屋で過ごしてもらう。生明には俺から指示を出しておくから、あいつがてめえのように従順なら大事には至らんだろう。まあ、暴走したところで俺の知ったことじゃないが」
「……っ!」
「そう睨み付けるなよ。てめえの相棒は『待て』もできない狂犬なのか?」
「ひめちゃんは狂犬なんかじゃありません!」
「だったら案じる必要なんざないはずだ」
 男は雑に言い捨てると、踵を返してドアへと向かった。思わずが立ち上がれば、それを制するかのように男も足を止め、顔だけわずかに振り返る。
「言っておくが、てめえに言い渡した『裏指令』はもちろん、『指令』も継続してる。間違っても茨の坊やとコンタクトを取ろうなんて考えるなよ?」
「そんなこと、分かってます」
 に下された表向きの『指令』は、茨と連絡を取らないことだった。茨もそれを察してか、ライブなどの指示があれば妃芽佳を通して連絡が来ていた。だから数日が不在でも、茨の指示さえあれば妃芽佳が仕事をこなすことは可能だろう。そんな保険もあったから、は一切の迷いなく、身一つでこの男の召集に応じたのだ。
「そりゃそうだよな? てめえが俺を裏切ったら、てめえが失うのはアイドル生命なんかじゃあないんだからな」
「!! あなたは……っ!」
 瞬間、は血相を変え、弾かれたように床を蹴り駆け出した。学生のころには陸上部に所属していたというだけはあり、瞬発力はなかなかのもだが――あくまで素人の中では、だ。感情任せに男の背に掴みかかろうとするに、先んじて体ごと振り向くと、男はが振り上げた細い腕を難なく受け止めた。
「いいのか、てめえの大事な大事な神さまがどうなっても」
「あなたは七種さんの大叔父さんなんでしょう! 家族なのに! なんでそんなことが言えるんですか!?」
「答えは簡単だ。俺の神はあいつじゃない」
「神さま以外は大切じゃないんですか!? あなたにとって大切なものはひとつしかないんですか!!」
「そうだ」
 にべもない答えに、は言葉を失った。大切なものは神だけで、それ以外はどうでもいい。はっきりと告げる男の瞳には、夜の底のように冷たい光があるだけだった。その瞳の冷たさを見ただけで、は直感的に理解した。自分の知らない価値観の中で生きてきたこの男には、きっとどんな言葉も響くことはないのだと。
「てめえだってそうだろう? 今のてめえには坊やしかない。友達や仲間がいくら大事でも、最後にてめえが命を懸けるのはあいつのためだ。それはてめえにとっての神さまがあいつだからだろう」
「……ち、がいます」
「違う?――はは。妄信的な駒かと思えば、意外と薄情だな。茨の坊やも可哀想に」
「七種さんは……七種さんはっ、神さまじゃありません! 神さまだから大切なんじゃない!!」
 は男に捉えられた腕を振りほどこうともがきながらも、瞳だけはまっすぐに男を見据えた。
「私は……っ、私が今、生きているのは、七種さんのおかげだから……だから、私の全部は七種さんのものなんです! 生きるのも死ぬのも、決めるのは七種さんで、七種さん以外、私にだって……決める、権利は……っ!」
「てめえのそれは、神罰を待つ狂信者となにが違う?」
「わ、私……私は……っ、七種さんを、独りぼっちにしたりしない…………!!」
 神の座に押し上げて、人の営みから遠ざけて、手の届かない遠く遠くへ追いやったりはしない。神にならなければ幸せになれないなんて、そんなさみしいことを言わせたりはしない。きっとひとのままだって、ひとのままであるからこそ、あたたかい幸せを手に入れられると信じている。
 そのあたたかさを伝えられるのは、自分ではないかもしれないけれど。それでも彼を孤独にしたくはない。自分だけはあのひとに、寄り添いたい。
「勝手にかみさまにしないで。あなたの神さまと七種さんを一緒にしないで!!」
 ぼろぼろと涙が零しながら叫ぶに、男の腕の力は少しも揺るがず、眉すらも動かない。男とに共通した価値観などなく、の言葉は、決してこの男に響くことは、届くことはないからだ。
 けれど。――面白い、と思った。わずかばかりの興味ならば、本当にわずかだが湧いた。振り上げた両の腕を男の片手で封じられても、心だけは折れずに睨み返すこの女に。天にあるまま、綺麗な姿のままで、己の信仰に殉じようする傲慢なこの女に。
「――、」
 男が薄い唇を開きかけた、その時。男の懐が震え、着信を知らせた。から取り上げた機器が入っているポケットとは反対の、男のスマートフォンが入っている内ポケットだ。男はを捕らえたまま、悠々と電話に応じた。
「ああ、てめえか。――何? まあいい、嬉しい誤算ってやつだ。そのまま連れてこい、二人ともだ」
 頭一つ分ほど背の低いには、男の声は聞こえても会話相手の声まではほとんど聞き取れない。それでもたったひとつ、ひとつだけは聞き逃さなかった。
 茨さん。相手は確実に、その名を口にした。
 そのまま連れてこい、二人とも――その二人のうちに茨がいる。男は茨と、誰かを捕らえようとしている。
 瞬間、さあっと血の気が引いた。引けてゆく血の流れが、聞こえたような気さえした。の『裏指令』はこの男に従うこと。従順であること。それなのに自分は、一時の感情に任せ、この男に何をしようとした?
 いつの間にか、腕から、全身から、力が抜けていた。ぐったりと床に沈んでいくに、男は眉根を寄せながら手を離す。電話は切れていた。男はスマートフォンを戻し、へたりこんだを訝しげに見下ろした。
「急に大人しくなったな? まあいい。てめえの取り柄はその従順さだ、だから茨の坊やもてめえを拾い上げた。長所は大事にしろよ? 従順に大人しく、役目を果たすことだけ考えろ。そうすれば仕事だけは与えられる。たとえ、てめえの望む愛が返らなかったとしてもな」
「…………、?」
 ぼんやりと顔を上げるに、男は言葉を続けた。
「てめえがどう解釈しようと、あいつは御大と同じ道を歩もうとしてる。御大を見てきたこの俺が言うんだ、てめえごときに否定できるはずもない。……茨の坊やを止めたいなら、せいぜいあがいてみろよ。まあ、今のてめえにできることはこの部屋で大人しくしていることだけだが」
「……七種さんを、どうする気ですか」
「なんだ、会話が聞こえちまったのか。意外と耳が良いんだな。……ああ、勘違いはするなよ、茨の坊やがこの地四国に降り立ったからといって、てめえと地続きの大地に足を下ろしたからと言って、てめえが救済されるわけじゃない。てめえの鳥籠はこの部屋だ、変わらずな。助けがくるなんて甘い期待はしないほうがいい」
「そんなこと考えてない!」
「だったら良いがな。てめえがそうやってお利口さんにしてたら、茨の坊やもいずれ解放してやるよ。お前が俺を裏切れば、茨の坊やも道連れだ。まあ、命までは取らねえよ。書類上とはいえ『家族』だからな。さすがの俺も心が痛む」
「……!」
 蒼白だったの頬に、かすかだが色が戻る。男の言葉を信じるのなら、今、茨を捕らえようとしているのはの罰のためではない。……少なくとも、今は。茨を潰すつもりではない。奪われることはない。それが分かれば、が安堵するには充分だった。
「……分かりました。指示を待つのは、得意です。待ちますよ、いつまでも。あなたがここに戻るまで」
「ようやく話に聞いたとおりになったな。いや、俺が脅しすぎなきゃ大人しいままだったか? 一般人の相手は慣れてないんだ。やりすぎて壊しちまっては脅しの意味もなくなる。これからは加減を考えるべきかもしれねえな」
「脅さないって選択肢はないんですか?」
「ないな。それが俺の世界の常識だ、お前の世界の非常識かもしれねえが。俺は俺の中で最も効率の良い手段を選ぶ」
「そういうところ、七種さんと似てます」
「…………、は?」
 一拍遅れて、男は顔をしかめた。意味が分からない、理解できない、正気を疑ってすらいそうな、そんな顔だ。それすらもどこか、似ているような気がした。書類上などと言っても、の知らない時代の茨を知り、よりも長く同じ時間を過ごしたひとだ。かつて家族のように過ごしたという凪砂と日和の柔らかな雰囲気が似ているように、この男と茨にも、ともに時を過ごしたがゆえの類似点があるはずだった。家族とは、そういうものだから。
「でも、私は七種さんのものです。あなたのものじゃない。――似ていても、同じじゃない。私に手を差し伸べたのは、あなたじゃないから」
 似ていても同じじゃない。この男と茨が同じではないように、この男の神と茨は、決して同じではない。同じにはならない。それが血を分けた『家族』であっても。
「あなたのものにはなりませんけど。お利口さんに、待てはできます。七種さんに躾けてもらいましたから」
「――ふん。坊やの躾が行き届いているかどうか、てめえで見せてもらおう。お利口に、従順に。ちゃんと待てができたなら、餌をやってもいい。俺はこう見えて優しいんだ。てめえの望みを、ひとつ叶えてやるよ」
「私の、望み?」
「そうだ。『裏指令』は当然だが、『指令』もてめえにはキツかっただろう? 茨の坊やの声が聞けず、てめえの声も届けられない。神さまに祈りを捧げられないんだ、さぞ辛いことだろう――ああ、神さまじゃないんだったか、坊やは」
「……」
「だから一言だけ。てめえの声を、祈りを、俺が伝えてやる。一言あいつに届けられるなら、何がいい?」
 神にとっての唯一が『使徒』なら、茨にとっての唯一は『Eden』だろう。茨の中で、この女は替えがきく駒のひとつにすぎない――それが男の推測だった。
 従順で便利だから重用しているだけ。この女が茨を愛しているから報いているだけ。女もそんな自分の立ち位置を理解している。だからこそ従順で大人しく、茨の声を待ち続けるのだ。その声にはなんの感情もこもっていないとしても。
 男は諦めた。『使徒』にはなれないと諦め、同じ愛は手に入らないと諦め、代わりに自分の全てを捧げた。愛する神のために、自分にできるすべてをなした。鉄壁の『門番』として、愛しい神の国を守り続けた。神からの愛が返らなくとも。
 では目の前の女は、どうか。きっと、いつか愛が返ることを期待しているだろう。かつての自分のように、かつての『神父』のように。まだ幼いこの娘が、男が長い時間を掛けて得た諦念を持てるはずがない。愛を、救済を、請わずにいられるはずがない。
「……それなら、伝えたいことはひとつだけです」
「へえ、言ってみろ」
「『お誕生日、おめでとうございます。七種さんが生まれてきてくれて、七種さんと出会えて、本当に良かった』」
「――は、」
「今月の十四日は、七種さんの誕生日でしょう?……今年は伝えられないと思ってました。当日に、とはいかなくても、伝えられないよりはずっといいですから。本当に、思っていたよりも優しいんですね」
 涙に濡れたままの顔で、それでもは嬉しそうに微笑んだ。窓から差し込む月明かりが、女の笑みを静かに輝かせる。冷たい光の中で、女の笑みだけは優しくあたたかい。
「…………そうか」
 その笑みで男は理解した。諦めたのではない。最初から欲していないのだ。愛も救済も、求めてはいないのだ。女が捧げるのは、見返りを求めぬ愛。無償の愛。究極の自己満足。今の男の原動力とよく似たそれ。
「そうかよ、てめえは……」
 よく、似ている。けれど同じではない。似ていても同じじゃなかった。嫉妬に塗れながらも光に焼かれ、諦めて選び取ったものではない。この女の愛は、消去法ではなく、初めからそうだった。
 でなければ、女の瞳がこうも輝いているわけがない。穢れなく輝き、あたたかな熱を灯しているわけがない。その愛は、男の知らない形をしている。
「一言、にしちゃあ多すぎるが……いいだろう。伝えてやるよ。、てめえの言葉を」
「! ありがとうございます、『ゲートキーパー』さん」
 の言葉を背に受けながら、男はドアを開く。ホテル内とはいえ、廊下に出れば冬の冷気が感じられた。男は錠の音を確認してから、冷たい廊下を歩き出す。
「……誕生日、ね」
 神の影を排除し、神に成り代わろうとすら企むあの子どもは、この女の言葉をどんな顔で聞くだろう。知らず御大と同じ道を歩もうとしている、神の血を引くあの子どもは。
 おそらく理解できないだろう。無償の愛がこの世にあることを、茨は知らない。存在自体は認めていたとしても、自分に向けられるそれがあるとは思いもよらない。本物を知らない茨には、たとえそれが目の前にあっても分からないだろう。だから手に取ることはない。むしろ紛い物と疑って警戒さえする。本当は、ずっと求めていたものだとしても。
(悲しいな、。だが、それでこそ無償の愛だ、そうだろう?)
 見返りを求めぬ愛ならば、受け入れられることさえ求めないはずだ。茨がそれを受け入れようが捨てようが、それでも愛することをやめられない。茨が茨である限り、である限り。
 しかしいつまで歪まずにいられるだろう。絶望せずにいられるだろう。相手にとって何者にもなれない自分に、自分以外の特別を愛でるそのひとに。はじめから終わりまで変わらない形の愛が、本当に存在するだろうか。
 とはいえ。そこまで見届ける気はないし、それほどの興味もない。男の信じる神はただひとりで、その神のためにのみ男の行動はある。伝言などはただの暇潰し、ほんの手遊びのようなもの。
 女の祈りが天に届こうが捨てられようが、異教のこの男にはどうだって良いことだった。

あなたはわたしを救わなくていい




Up:2023.12.02
Photo by Davide Sibilio on Unsplash
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