悪夢を見る晩は、いつもなにか予感がある。
 体を横たえたときの四肢へ広がる疲労の深さ。瞼を降ろしたとき目元にわだかまる微熱。眠りに落ちる狭間の思考の欠片。
 些細なひとつひとつが記憶の扉を叩いては、幾度も繰り返した悪夢を眼裏へ映し出す。経年とともに洗練された悪夢は胸の奥に突き刺さった痛みだけを器用に拾い上げ、時折現在の懸念を織り交ぜて精神を蝕もうとする。
 しかし、擦り切れた悪夢にもはや恐怖はなかった。そこから抜け出す明日を知っているから。渇望していた力を得る日を知っているから。せいぜいが未だあの日々が己の恐怖の代名詞としてこびりついていることに嫌気がさす程度だ。
 手にする銃の冷たさも、土煙の息苦しさも、鼻をつく鉄の臭いも、すべてが過去で終わりがあり、やり過ごせば慌ただしい朝が来る。過去の幻影に意味などなく、己が生きる『今』以外に興味はない。
 夢、とは。脳味噌の整理整頓。睡眠は体を休めること以上に脳の整理のためにこそ取るべきで、常にあらゆる感覚を駆使して情報を得ている人間の身体には、インプットした情報を使いやすく整理してやる時間が必要だ。情報というものを武器として行使する茨は、そのための効率の良い睡眠方法と体力づくりを研究し、自分にとってのベストバランスを体得している。武器は適切な手入れをしてこそ真価を発揮する。くだらぬ夢も己の武器を研ぐためと思えば軽視はできない。今このときは茨がこれまでに得た情報を整頓している真っ最中であり、夢の中身とは己の得た情報のリプレイである。……つまり。
「…………はあ?」
 端的に述べれば、七種茨は混乱していた。これが夢であるという確証を持っていながら――いや、持っていたからこそ、というべきか――目の前の光景が信じられなかったし、信じたくなかった。
 ロケーションとしてはありふれた光景だ、コズミック・プロダクションの事務所である。大きく夜空を切り取る窓には大粒の雨が叩きつけられ、普段なら星のように瞬く街明かりがどんよりと霞み揺らめいて見える。そういえば深夜に大雨の予報が出ていた、妙な整合性がおかしい。
 照明は茨が今いる場所を除いてすべて落とされている。LEDが照らすのは自分のデスクが置かれている奥の一角のみ、夜半にはよくある光景だった。なんなら今日も最後まで残ったのは茨だったし、週の半分は茨が最終退勤者である。別に残業を推奨しているわけではないし、残業したいわけでもないが、細々した雑務は寮の自室より事務所のデスクのほうが捗るのだ。
 その、見慣れたデスクの上に、それは浮いていた。自分のデスクに向かう茨の目の高さには、爪先がわずかに擦れたローヒールのエナメルパンプスがある。そこから視線を上げてゆけば、スキニージーンズに包まれた脚が、その膝を抱えるほっそりとした白い腕が見え、それからやわく微笑む彼女の顔があった。。彼女が夢に出てくるのは、これが初めてではない。
 オフの日によく見るシンプルな服装の彼女は、しかし普段のそれとは違い、ゆるいウェーブのかかったロングヘアをそのまま揺蕩わせていた。時折ころんと右に一回転、左に一回転して、そのたびに新緑を思わせる長い髪がさらさらと揺れる。不随意に転がっては茨の前に戻ってくる姿は、ドキュメンタリー番組かなにかで見た宇宙ステーションの様子に似ていた。
「あの、すみませんが、……もう一度お伺いしても?」
 は妙に間延びした調子で「はあい」と応えると、両手で宙をかいて逆さまになっていた体を元に戻す。どうにか茨と目の高さを合わせようともがいていたが、やがて諦めたように溜息を吐いて体育座りのポーズに戻った。
「あのですね、私……。実は、宇宙人なんです」
「………………はあ」
 何を言ってるんだコイツ、と思う自分と、コイツなら言いかねないと思う自分。そしてこんな珍妙な夢など再生するなと怒りを覚える自分。すべてがまったく同等の力で綱引きしていた。何度聞いたところで混乱は収まらない。無駄に聞き返した己の愚かさを茨は恥じた。
「つまり、この地球上で生まれた生命体ではない、と」
「そうなんです。この星には観光に来ていて。……だけど、とっても悪い現地人につかまってしまったんです」
 溜息と同時に、くるり、との体が後ろへ半回転する。あれあれ、と頼りない声をあげながら両手をばたつかせているが、思うように体勢を戻せないらしい。逆さまの背中が手の動きに合わせてふわふわと揺れ、デスクに落ちる影もまた彼女の浮遊に合わせて彷徨っている。逆さ吊りのような状態なのに、Tシャツどころか羽織っているカーディガンすら捲れ上がらないのが不思議だった。そのくせ彼女の髪だけは重力に従うように落ち、毛先の方だけがふわりと浮いて波打っている。ちょうど液晶ディスプレイを覆うような形で翡翠色は広がり、晒された白いうなじが光を受けて淡く輝いた。
 体を二転三転させていた彼女は、ようやくこちらに顔を戻すことに成功したものの、天地を正すのはもはや諦めたらしい。逆さ吊りの顔が仕切りなおすように、こほんと咳払いする。
「しかし、ですね。そこを助けてくださったのが、なんと! 七種さんだったのですっ!」
 勿体ぶるように言うと、はぱちぱちぱちーっと口でSEを加えながら拍手をした。柘榴石のような瞳を輝かせ、茨にまで拍手を求めてくる。投げやりにぱちん、ぱちん、と何度か手を叩いてやると、は満足そうににっこりと笑った。
「私の銀河系の生命は長命であることが最大の特徴で、他の銀河系に住む生命体から生命または財産の危機を救われた場合には、扶助者に対し同等の恩を返す、または死亡が確認されるまで対象を見守ることが義務付けられています。とはいっても、そうそう起こることではないんですよ。銀河外へ出るのはほとんどが旅行目当てですし、治安の悪い星は旅行先として好まれませんから。それに私たちよりも高度な文明を持っている星も少ないから、こちらが助けを求める状況というのが、かなり限られてしまうので……」
 近年のワープ技術の発展のおかげでようやく庶民も地球へ旅行が出来るようになったこと、それゆえに地球文明への理解が浅く、詐欺に合ってしまったこと……。は逆さ吊りのまま身振り手振りを交えて訴える。なるほど、ほう、そうですか、ビジネストークで鍛えた相槌を投げやりに繰り出してゆくたびに、茨の瞳からは光が失われていった。それに比例するようにの瞳は輝きを増してゆくようで、茨はこの宇宙人に精気を吸い取られていやしないかと思い始めた。
「でも七種さんは助けてくれた! 私をあの悪徳地球人から救ってくださったのですっ! 他の銀河系人からの救済を受けるのは、うちの星では千年ぶりのことなんですよ~! おばあちゃんでも生まれる前ですから、本っ当に稀なんでしょうね……だから私、もうすっごく感動してしまって!!」
「……………………」
 茨の胡乱な目にようやく気付いたのか、はそこで興奮した表情を慌てて引っ込めた。
「あ、ええと……、ですね? 宇宙警察の調べもあって、令状も出まして。民法第一条および第十五条に従い、扶助者であるあなたの助けとなるため、こちらに滞在することになったんですけども……」
「宇宙警察に……民法?」
 とうとう耐えかねてリアクションを返してしまった自分に気付き、茨は頭を抱えたくなった。問うまでもない、この女の住む銀河系とやらの警察であり民法なのだろう。これ以上よく分からないトンチキ世界観の説明などちっとも聞きたくはないのに、──なぜ愚かにも問うてしまったのか。数秒前に戻って自分の口を塞ぎたい、いいやそもそもこの悪夢から目覚めたい。誰でもいい、殴ってでも俺を起こしてくれ。
「あっ、すみません! ええと、民法というのはコズミック六法の……、つまり、私たちの法律であって、」
「……話を腰を折ってしまいましたね。とりあえず、話を進めていただけますか」
 いっそこのまま卒倒したい。喉まで出かけた本音を飲み込み、茨は目頭を揉み込みながら先を促す。こちらが躱そうとしたボールを善意で打ち返してくる彼女の空気の読めなさ、湧き上がる怒りと呆れを飲み下すときの喉の痛み、どちらも嫌になるくらい覚えがあるものだ。己の夢ながら、無駄な再現性の高さが憎らしい。寸分の狂いもないほどだった。
「すみません、それでは……。あのぅ、先程も少しお話しましたが、地球への観光はまだまだ珍しいんです。加えて七種さんの功績が功績ですから、テレビやら雑誌やら、特集がいくつも組まれていて。それでですね、ここの……『アイドル文化』って言うんですか? とくに『Eden』の皆さんがもう、それはそれは大変な人気が出ちゃったんです」
「…………さようで」
 すべてを征服するのは男子の本懐である。お手々繋いでみんなが一等賞、など唾棄すべき思考だ。たとえそれが現在の潮流に逆らうことだとしても。
 しかし、銀河ときた。他所の銀河で爆発的に流行るアイドル。……さすがに己の征服欲も度が過ぎているのではないだろうか。ここまで突拍子もないと、もはや幼児の将来の夢ではないか。
 茨が掲げる夢、野望は、もっと地に足ついた征服欲である。現実的な計画があり、実績も重ねている。この女が宣うような夢物語ではなく、この女のように陽気にふらふら浮いてなどいない。断じてだ。
 茨の怒りなどつゆ知らず、ヘリウムガスの擬人化みたいな女は軽そうな頭をそのまま言葉にしたみたいにぺらぺらと話を続けた。
「コズミック・プロダクションという名前もウケがよくって! 地球の言語の翻訳は、英語とフランス語と中国語はかなりの精度なんですが、日本語はまだ進んでいなかったんです。でも今回のアイドル流行りでそれが一気に進みました。私もかなり貢献したんですよっ!……あ、それでですね、元々地球の宗教がうちの星では密かなブームだったんですけれど、」
 よく回る口だ、と茨はぼんやり思った。彼女の口からこぼれ出てくるトンチキな世界観の話など半分も耳に入っていないし、むしろ耳に入れたくなかった。脳が拒絶していると言ってもいい。そもそもこれは茨の夢なので茨の頭で再生されている現象なのだが、今だけ彼はその現実を意識的に忘れた。
「結論からお願いできますか」
 いつまでもぺちゃくちゃと喋り続けそうな様子に耐えかね言い放つと、ははっとした顔で口をつぐんだ。それから「ええと」と言い淀む。瞳の巡らせ方から困ったような眉の角度、顔に寄せる手の形、どれを取っても『困っているときの』そのもので、茨はここまで克明に彼女の様子を描写できることに心底嫌気がさした。彼女が夢に出てくる時、茨はいつも似たような苦々しさを覚える。
「結論を、申し上げますと。……七種さん、どうか一緒に、私の星に来ていただけませんかっ?」
 はそう言って、茨の左手を両手でそっと包むように握りしめた。天地の狂った彼女の顔が、真剣な表情を浮かべて茨をまっすぐに見据える。
「七種さんはこんな小さな星に収まってよい方ではありません。七種さんのプロデュースする『Eden』、彼らが誘う楽園は、凪砂くんの神の威光は、全宇宙の迷える人々にとって、希望の光となるはずです! アイドルという尊き光を、この宇宙へ遍く届けましょうっ!!」
 言葉に込められた熱意そのままに、はむぎゅっと手に力を込めてくる。どこで教育を間違えたかな、茨は強く握られた自分の左手に目を落としながら、焦点はどこか遠くを見つめた。
 言葉を飾り立てる過剰な賛辞は七種茨の特技であり、捲し立てるような褒め殺しは茨の専売特許と言っても過言ではない。茨を崇拝してやまぬ彼女は、その敬愛から茨の口癖や仕草を真似ることがあり、茨に対しては本人もかくやの褒め殺しトークを繰り出すこともあった。しかし、それにしてもである。『この小さな星に収まってよい方ではありません』?……賛辞も度を過ぎれば滑稽だ。いつも茨の営業トークに困惑か無反応を返すあんずもこのような気持ちだったのだろうかと、茨は一瞬だけ己のトークスキルを顧みた。
「…………はあ、はい」
 肯定とも否定ともつかぬ投げやりな相槌、に紛れさせた溜息。いったいこれで何度目だろうか――現実逃避にも似た回顧は、すぐさま彼女の歓声によって断ち切られる。
「本当ですかっっ!」
 ぱあっと表情を輝かせるを見上げ、茨は瞬間、しまったと臍を噛んだ。この女に対して、否定は明確に決定的に言い渡さねば意味がない。とくに今のように興奮した状態の彼女には、赤子でも分かるほどの明快さで「ノー」を突きつけねばならないというのに。曖昧な答えを返してしまった。図に乗るのは目に見えていたのに!
「嬉しいっ! 私、一生涯をかけて七種さんを支えますっ!!」
 柘榴石の瞳が涙で潤み、キラキラと輝く。いいや先程のは、言い訳を述べようとする茨を遮るように、はぎゅうっと茨の頭を抱き込んだ。
「ああ……夢みたいです、本当に、七種さんが私の星に来てくれるなんて!」
 うっとりした声音が首筋を滑る。胸元に抱き込まれた頭が苦しい。夏らしくて爽やかな香りが気に入っている、先日嬉しそうに言っていたグリーンレモンのボディコロンが、確かに茨の鼻腔へふわりと香った。
「ちょっ、離してくだ、ああっ! 離せっ!」
「ふふ、七種さん照れているんですか? 可愛いです」
 これ以上とぼけたことを抜かすなこのヘリウム女! 今に首を絞めてやると暴れようとするものの、急に手足のコントロールが利かなくなる。そういえばこれは夢だった、今更のように思い出した事実が忌々しい。茨は必死で舌を噛み切ろうともがいたが、舌先すら思うように動かず、茨は目の前の宇宙人にされるがままだった。
「そうだ、せっかくですから、地球式の衣装に変えないと! 郷に入っては……でしたよね!」
 茨が離せと言っても離さなかったくせに、意味不明なことを宣って腕を解放したは、赤い瞳をキラリと輝かせて瞬いた。その瞬間、見慣れたオフィスは一変し、宇宙船の内部のような空間に変わってしまった。いや、これも番組のセットで見た記憶がある。大きく切り取られた窓枠の向こうにはCGみたいな星空がはめ込まれていた。
「教会は用意できませんが、衣装を変えるだけでも雰囲気が出ますよね? ふふ、私、一度着てみたかったんです」
 いつのまにか天地の正された彼女は、相変わらず空中にぷかりと浮き上がったまま、純白のチュール生地をつまんでスカートを広げて見せた。純白のドレス、――ウェディングドレス。
 そういえば少し前、あんずから打診があった。女性アイドル中心のジューンブライド企画、そのメインに『DryaD』を起用しないか、と。の身を包むのは、その企画書に記載されていたものとよく似た、エンパイアラインのドレスだった。クラシカルなレースが首元から手首までを覆う露出の少ないデザインで、バストのすぐ下に結ばれたリボンで切り替え、スカート部分はチュール生地がやわらかく重なって落ちる。編み込まれた翡翠色にはピンクと白を基調とした花冠が飾られ、その上に被せられたマリアヴェールがの白い肌に透き通った影を落とす。『DryaD』のアイドル衣装の要素も拾った、良いデザインだった。良いデザインではあったし魅力的な企画ではあったが、デビューしていきなりジューンブライドは時期尚早ではとの懸念もあり、返事はまだ保留にしている。
 この企画を彼女に伝えたことはない。ボツになるかもしれない企画を話したところで意味はないからだ。なのにどうして、呆気にとられる頭の隅で、これは夢だと思い返す。そうだ夢だ。この馬鹿げた光景のすべてが夢で、すべて己の――そこで茨はまた思考を止めた。舌を噛み切りたくなったからだ。
「七種さんがあの日、私に指輪をくださった日から……きっとこうなることは決まっていました」
 うっとりとが頬を寄せるのは、彼女を拾ってから初めての仕事に向かう際、あまりの緊張に倒れそうになっていた彼女へ「お守り」と称して渡したものだった。どこの雑貨屋にも売っている、シンプルでチープなゴールドメッキの指輪。宝石も装飾もない、ただの金属の輪だ。
「地球の文化では、指輪を贈ることが結婚を約束するそうですね。私、あの時は全然知らなくって。でも、もう大丈夫です。覚悟ならもう出来ていますから」
「なんの覚悟だよ……!」
 そのただのリングに大層な意味などない、それを理解しているはずだ、この女なら理解しているはずだった。お守り、それ以上でも以下でもないことを、現実のは理解しているはずなのに。あの女と寸分違わぬ顔で、表情で、茨から贈られた指輪に意味を込めて頬を寄せるこの「宇宙人」が忌々しくて仕方なかった。ヘリウムガスの権化とて、それでもこの自分が拾った駒なのだ。ここまで阿呆であっていいはずがない。
「照れなくてもいいんです、私、ちゃあんと分かっていますから!」
 爛々と赤い瞳を輝かせる宇宙人には、しかし茨が願う最低限の分別すら備わっていなかった。宇宙人はコントロールの効かなくなった茨の両手をそれぞれの手でやさしく取り――ふと見下ろせば、自分もどこかで見たことあるようなデザインのタキシードを身にまとっていた。これも例の企画書にあっただろうか、覚えていない。思い出したくもない。目が覚めたら真っ先にあんずに連絡してあの企画をボツにする。茨は固く誓った。
「七種さんの想いに答えるために、私もこうしてあなたを私の星へ招く覚悟を決めました。異星人を母性へ招くことは婚約を意味します。この地球の素晴らしい文化を、ともに世界の果てまで届けましょう!」
「その指輪に意味なんかないし、俺はどこぞの星に行ったりもしない! この星で天辺取るのに忙しいので!」
「うふふ、こんな星の天辺なんて、銀河を制覇してからでも遅くはありませんよ? 突撃、侵略、制覇です!」
「いい加減にしろ! 人の話を聞け宇宙人!」
「いつものように『さん』と呼んでください。ね、茨くん」
「あんたみたいなボケ女、誰が名前で呼ぶかっ!」
「あらあら、新婚生活は前途多難ですね?」
「だから結婚なんかしないって言ってるだろ! 宇宙人とは、絶対に!」
 あらあら、うふふ、困ったように眉尻を下げながらも嬉しそうに微笑む目の前の宇宙人に、茨は心底腸が煮えくり返った。それ以上その顔で勝手なことを抜かすな。その女は茨が人生で初めて出会ったレベルに途方もないお人好しだが、うんざりするほど馬鹿ではない。ふざけるな。
 それなのにこの宇宙人はへこたれた様子もなく茨にそっと体を寄せた。またあのグリーンレモンの香りがする。どうしてこの女から、そんなはずはないのに。混乱が脈を乱して肋骨の中で暴れる。どくどくと早まる鼓動が体温を上げ、不随意に頬を紅潮させる。
「宇宙人? 茨くんだって宇宙人ですよ。だってこの宇宙に住んでいるんですから」
「そんな屁理屈はいいんだよ」
「屁理屈なんかじゃありません。私たち、この広い宇宙の中で出会ったんです。きっとこれは運命なんですよ!」
 運命。あの女が好きそうなフレーズに、いちいち胃の底をざらりと逆撫でされる心地がする。忌々しい。はやく醒めろこんな夢。
「でもね茨くん。私はあなたが運命の相手だから好きなんじゃありません。あなたが私を助けてくれたこと、それだけでもないの。そんなものは全部ただのきっかけで、あなたがあなたであるから、そして私が私であるから、だからきっと、あなたに惹かれたのよ」
 柘榴石の瞳が、やわらかく細められる。うっとりとほどけるような笑みが茨に近付いた。
「茨くん。この世界の、宇宙の果てだって。もっとその先の異世界の果てでも、――あなたが好き。あなたが大好き」
 全身が心臓になったみたいに鼓動の音がうるさくて仕方ない。混乱のせい、怒りのせい、理由を見つけては安堵して、けれど脈拍は正常に戻ることなく、宇宙人の顔が近付いてくる。レモンの香りが鼻先を掠める。
「茨くん、大好きよ」
 赤い瞳が、ぎらりと焼き付くように輝いて。茨の意識はそこで途切れた。






 きっかり六時間の睡眠を取った。それなのに、この疲労感はなんだ。
 茨は怒り任せに布団を蹴飛ばしながら身を起こした。枕元には広げたままの企画書とタブレット、それからなぜかデスクへ避けていたはずの彼女のカーディガン――オフィスで仮眠を取る茨に掛けられていたものを持ち帰った――が茨の首元に巻き付いていた。
 悪夢を見た、感触がある。疲労の抜けなさや喉の渇き、腹に溜まる怒りの名残。けれど幸か不幸か夢の内容はとんと記憶になかった。それならこの感触ごと忘れさせてくれればいいものを、人間の体とは微妙に気が利かない。
 まるで彼女のようだ。ふいにそんなことを考えた自分に、茨は自分で驚いた。そして納得する。微妙に気が利かない。本人は頑張っているつもりだが、いつも少し空回っている。それでも、置物よりは仕事をするだけマシだけれど。指示さえ与えれば十全にこなすのだから、遊ばせなければいい話だ。
 皺の寄ってしまったカーディガンを軽く伸ばしながら、茨はベッドから立ち上がる。枕元に広がる企画書を手に取りながらデスクへ向かい……ふと、眉間に皺を寄せた。
「…………」
 なぜだろう、無性に腹が立って仕方ない。このジューンブライドの企画書、悪くないと思っていたはずのドレス案を見ていると、忘れたはずの怒りがふつふつと蘇ってくるのだ。
「……なんでしょうね、まったく」
 感情任せにチャンスをふいにするなどビジネスマンとしてあってはならないことだ。しばし企画書と睨み合っていた茨は、ややあってそれをデスクに伏せた。検討を急ぐことはない。あんずの話では来週までに返事を、ということだった。彼女のことだからコズプロから断りが来ても代案くらいは考えているのだろうし。考えるにしても、シャワーでも浴びて悪夢の残滓を流しきってからだ。
 シーツと枕カバーを剥がして洗濯カゴにいれ、自分の服を入れてから、彼女のカーディガンを重ねる。そのとき、ふわりと爽やかな香りがかすかに立ち上った。なんの香りか記憶が探し当てる直前に、夢の残滓がひとかけら、茨の胸に蘇る。
『茨くん、――――』
「……っ」
 なんだ、今のは。目の奥がちかちかと赤く瞬いたような感覚に、額を押さえる。疲れているのか。それだけか。どくん、と鼓動が高鳴って、甘やかな囁きが茨の耳元に繰り返される。茨くん。その先が再度蘇る前に、茨はカーディガンをカゴの奥底へ沈めるように突っ込んだ。
「ああもう疲れてますね、まったく。これも閣下の無茶苦茶のせいですよ、人のことストレスで殺す気なんでしょうか」
 これは疲労。これはストレス。原因は乱凪砂でありそれ以外の誰でもない。自分に言い聞かせるための独り言を小声で吐いてから、茨はいまだ眠りについているルームメイトを起こさぬよう、静かに部屋を滑り出た。

メビウスリング・ユニヴァース




Up:2022.06.26
♪Image Song ナユタン星人「エイリアンエイリアン」
Photo by Alexander Andrews on Unsplash
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