普段は事務所や自社ビルから見下ろすただの光の群れが、電車の窓から眺める今は生きたひとの営みだと感じられるのが少し不思議だ。
アイドルの、アイドルによる、アイドルのための国家、アンサンブル・スクエア。アイドルである七種茨は当然その国家の住人だが、事務所の副所長を務め、さらには青年実業家としての顔まで持つ茨の行動範囲は、そんな小国家の中だけでは完結しえない。
今日も自身が経営する会社の打ち合わせに次ぐ打ち合わせ、その合間に雑誌の撮影をこなし、事務所に顔を出して雑務を片付けてきた。
そして今日という長い一日の締めくくりは、このほどクランクアップを迎えたばかりのドラマの打ち上げだ。主演でこそないものの、それなりの主要キャスト。二次会までは礼儀として付き合ったが、三次会のタイミングでするりと逃れてきた。酒は弱くないけれど、飲み会はあまり好きではない。情報収集の場として有用であることは理解しているし、そういう意味ではなるべく参加するようにしているが、茨にとって飲み会もビジネスだ。息抜きや憩いの場では決してない。
一つの現場の終わりは次の現場の始まりだ。新たなコネクション作りのため、今日も今日とてよく働いた。普段からよく回る己の舌は酒というブーストを得て更によく回転し、会話の盛り上がりに合わせてグラスを口へ運ぶスピードも上がっていった。
もちろん深酒などという愚は犯さない。自分の限界は把握している。しかし、普段よりも呑みすぎたのは、確かだった。
ここ最近の睡眠不足も相まってか、体がひどく怠い。血中に溶け込んだアルコールは全身に無駄な熱を振りまいて、茨の思考をとろとろと鈍らせていく。熱が蟠り重たくなった頭を窓に預けて、茨は車窓を流れていく光をぼんやりと目で追った。
深夜の街並みが、煌々と輝いている。
明日は別件の打ち合わせが一本、ダンスレッスンと歌の収録、今度のライブに向けたグッズの会議がある。いつもなら車を呼んで、車内で仮眠を取るところだが、今回の共演者の一人がかなり酒癖が悪く厄介という情報があったため、急遽電車に変更した。他に同じタイミングで抜ける人間がいた方が切り抜けやすいからだ。目をつけていた音響スタッフが電車を使うタイプという情報もあったので、いい機会だったというのもある。
二駅ほど前に降りた彼のことは、以前からコズプロ系列のレコーディング会社に勧誘していたが、酒の勢いも手伝ってか今日はかなりの好感触だった。明日にでもさっそく連絡を取ってみようか。酒に弱いなら食事の席を用意するのが望ましいだろう。うちのアイドルを気に入っていたようだし、同席させるのも手だ。
――俺、あの子結構好きなんすよね、ほら、ちゃん。バラエティだとちょっと天然っぽいとこも面白くて。
ライブ活動やドラマ、舞台を中心に活動していたも、近年はバラエティ番組での露出が増えてきている。華やかで繊細そうな容姿に反した体育会系ノリのギャップがウケているようで、体験型ゲーム系の番組ゲストは常連となりつつあった。
誰もが四六時中演技を続けられるわけではない。本人の資質から乖離したキャラクターが、長続きするはずがないのだ。いつかは彼女に纏わせたベールを剥がす時がくることを、茨は当然のように予期していた。そのための仕込みも、最初から。
結果は上々。各種円盤の売り上げはもちろん、テレビや雑誌でも多く注目され、SNSの公式アカウントのフォロワー数も伸びている。さらには業界の人間にも好感を持たれているのだ、彼女のアイドル設計は完璧と言っていい。さすが自分。男女アイドル界のトップの座を手中に収める日も遠くないかもしれない。
機嫌良くグラスを干し、目当ての人物との接触も好調。酒癖の悪い厄介者を出入口から最も遠い席に追いやっていたおかげで、予定通りのタイミングで打ち上げから逃れられた。駅までの道中でも例の彼との話は弾み、引き抜きにはチェックをかけたと言っていい。
後は事務所へ戻り明日の準備をして、寮に帰って睡眠を取るだけだ。一応、コズプロは事務所内にも仮眠室を用意してある。わざわざ帰寮することもないのだが、お人好しのルームメイトたちがうるさいので、ここしばらくはなるべく帰るようにしている。なにより、そのルームメイトたちがやたらと茨の帰寮状況をに報告するのが面倒極まりないのだ。
百パーセントの打算で人脈を広げてゆく茨とは違い、「仲良くなりたいから」というシンプルな理由で人間と接するは友人が多い。彼女の無邪気さにはコズプロに懐疑的な夢ノ咲出身者たちも警戒を解きやすいようで、アンサンブル・スクエア設立当初の地盤固めには大いに役立った。彼女の社交性は、茨にとって有用な武器である。
アイドルという駒としても、彼女は一流の武器に育った。茨の指導のもと着実に力を付けて階を駆け上がり、女優としての道も固まりつつある。今やはコズミック・プロダクションの名を背負う、看板アイドルのひとりだ。手放す気は毛頭ない。……ない、のだが。
少々、自由にしすぎたのだろうか。この頃の彼女は、どうも手に余るのだ。
これまでの短くも濃密な茨の人生経験をもってしても、を超えるお人好しかつ愚かな人間は存在しなかった。おそらくこれからも現れないだろう。むしろ現れては困る。現れてくれるな、頼むから。
がたん、と電車が揺れ、ゆるやかに停車する。あと一駅で降車駅だ。車内へ流れるアナウンスの音声がいつもより遠く聞こえる。茨は強く目を瞑り、再び開いた。鞄の位置を直し、足を組み替え座り直す。あと一駅、ここで眠気に飲まれるわけにはいかない。
眠気覚ましに水でも飲もうか、と鞄の中を覗き込んだとき、はかったように何かが震えた。会社用のスマートフォンではない。アンサンブル・スクエア内で使用している端末だ。まだ起きているルームメイトか、それとも凪砂か。今夜の帰宅時間は伝えているはずだが、いったいどんな要件だろう。
茨は画面に浮かんだ通知を一目見て、――反射的にスマートフォンを鞄の奥底にねじ込んだ。
『お疲れさまです。頼まれていた書類整理……』
深く息を吐いてから、もう一度取り出す。画面を開けば、先ほど目にした通知が画面の上部に浮かんでいた。文章の後半は省略されているが、中身なら予測できる。茨は顔を隠すために被っていたキャップを被り直し、通知をタップした。開かれたのは、――予想通り、とのトークページだ。
話の内容は、数日前に依頼を出していた書類整理についてだった。すべて終わったので事務所のデスクに置いておきます、という報告。ただ、それだけ。
……鼓動が早まっている気がするのは、酒のせいだ。頭の芯が言いようのない痺れを訴えているのも、もちろん酒のせい。
茨は目頭を軽く揉むと、もう一度画面を見つめた。返信を打ち込もうか、明日に回そうか――。迷っているうちに、新しいメッセージが追加される。
『今日は飲み会でしたよね。事務所には寄りますか?』
寄ると答えれば、きっと彼女は待っているだろう。この頃の寝不足に彼女は気付いている。雑務を片付けようとする茨を、一秒でもはやく寮に追い立てるつもりなのだ。
『今夜は真っ直ぐ寮に戻ります。遅くまでお世話様でした。さんもお気を付けてお帰り下さい』
考えるより先に指先が文章を打ち込んでいた。送信するとほとんど同時に画面を閉じ、スマートフォンをしまいこむ。少ししてから返信があったのだろう、鞄の奥が震える感覚がしたが、茨は動かなかった。腕組みをしてじっと目を閉じる。すっかり眠気はどこかへ消え去っていた。きっと酔いも醒めつつある。もうすぐ降車駅に辿り着く。
電車が止まり、プシュッと気の抜けた音とともに自動ドアがスライドする。ほんのりと甘く潤った春の夜風が茨の頬を撫でた。
彼は立ち上がらない。ドアが閉まる。風が閉ざされ、電車は夜の中へ再び滑り出す。瞼の裏で、彼女が苦笑する。
――もう、駅過ぎちゃいましたよ。はやく帰らないと……ちゃんとお布団で寝なきゃだめじゃないですか、七種さん。
ああ、うるさい。締め出しても締め出しても現れる幻が煩わしい。誰のせいで眠れないと思ってんだ。
……お前のせいだなんて、口が裂けても言いやしないけど。
ブラックアウト
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