、と他人行儀な呼び名を舌に乗せるようになってからというもの、あいつはみるみるうちにオレから遠ざかっていった。遠ざかったから呼び名を変えたのか、変えたから遠ざかったのか、今となってははっきりしないが、オレとあいつの間に出来た隔たり、溝、距離、そういったものを埋めるかのように、オレではない男があいつの周囲に群がるようになった。
 気味が悪い。
 具体的な不快感の対象は判然としない。だが、下心を隠そうともしない間抜共に向かってへらへらと作り笑いを浮かべるあいつを見ると、言いようのない苛立ちが胸に込み上げた。あいつに腹を立てているのか、馬鹿な取り巻きに腹を立てているのか、両方なのか。もしかしたらそれですら正解とはいえないのかもしれない。判らないことが、余計に気味の悪さを増幅させた。

 冬休み目前の期末試験を翌週に控え、今日から放課後の部活動は休みに入る。今日のうちはまだ焦りの色を見せているものは少なく、放課後の教室に残る生徒は自習目的よりも友人との雑談に興じるものが多い。オレもそのうちの一人であり、何かと騒々しいサッカー部の連中や、二言目には猥談ばかり零す野球部の連中たち数人で、他愛のない話で時間を潰していた。
 部活が違う人間と、放課後に長々と話をするのはそうあることではない。教師のことから翌週の試験の話題、部内の噂や最近見たテレビや漫画の話題など話は尽きず、大袈裟に笑い声をあげる男子の中で適当に相槌をうっているうちに、気付けば教室の中身はオレたちのグループだけになっていた。
「……そういえばオレ、先輩に聞いたんだけどさ」
 ふと話題が切れ、数拍の沈黙が流れた後だった。神妙な顔を作ろうとして失敗したような、変ににやついた笑みを浮かべて野球部のひとりが口を開く。
「隣のクラスのってさ、あいつってさぁ……」
 そいつは勿体ぶって言葉を切り、周囲の反応を確認するように目をぎょろりと動かす。話題も粗方尽き始めて緩んでいた空気が、俄に締まった。
 の名が、男子との話題にのぼる回数は少なくない。どのメンツで雑談を始めても女子の話題は頻出度が高いが、は中でも別格だった。同学年では特に目を引く容姿をしているし、性格も申し分ない。この頃では胸の膨らみが目立つようになったと、下卑た目を向けているやつもいる。
 容姿の良さは否定しない。身体つきの変化については、正直興味がなかった。何が面白いのだか理解が出来ない。そして性格については、あくまで表向きの話だ。上っ面を取り繕うのが上手くなっただけ。小学生のうちは不用意に口を開くせいで頻繁に揉めていたが、ようやくあいつも言葉を選ぶということを覚えたらしい。
「お前、何かって言うとすぐにの話するよな」
「実は好きなんじゃねえの?」
「ば、ばっか、ちげーよオレはもっと可愛い感じが好みだし」
 茶化す内容よりも話の腰を折られたことにより苛立ちだろう、ぶすりと唇を突き出してそいつが零すと、すかさず一人が畳み掛ける。
「テニス部の篠原さんだっけぇ?」
「ちげーよバカ!!」
「あれ、違うの?」
「ちが……いや、違わないけど……、ああもう!」
 真っ赤になって声を荒げるそいつに、周囲がぎゃはは、と誂うように笑い声をあげた。
「耳まで真っ赤じゃん」
「これガチなやつだわ」
「篠原って同じクラスだけど超良い子だよ」
「惚れんなよお前、三角カンケーとか重すぎて聞きたくないわ」
「それはない」
 しばらくテニス部の篠原さんで話が盛り上がり、話を切り出したはずの野球部の人間がふてくされたように息を吐く。何か大きな話題を拾ってくるのはいつもこいつだが、本題に入る前に盛大にいじられて話が進まないのが常だった。
ってうちの部の?」
 あまり話に参加しないのも場の空気が滞る。会話の切れ目に一声投じてみれば、やつは助け舟とばかりに食いついて話題を戻した。仕切りなおすように、最初から繰り返す。
「先輩から聞いた話なんだけど」
 こいつの話はいつも先輩から聞いた話だが、これも毎度のことだ。今度は誰も茶化したりしなかった。皆あいつのことは気になるのだろう。と名を出せば、大抵の男連中は取り敢えず耳を傾けはじめる。
 興奮を抑えた声で、神妙にそいつは続けた。
「あいつさ、……バスケ部の先輩と付き合ってるんだってよ」
 付き合ってる。その単語が出た瞬間、サッカー部のひとりが大げさに叫び声を上げた。それに釣られるように、次々と反応があがる。
「オレ結構好きだったのに!」
「会うといつもにこって笑ってくれるからオレ好かれてると思ってた!」
「何だよカレシ持ちかよ! しかも先輩とかさぁ!」
「年上好きかあ、甘え上手っぽいもんなー、雰囲気が」
「オトコゴコロ弄ばれたわ……」
「お前、自惚れるにしても鏡見てからにしろよ」
「んだよ! ひっでーな!」
 篠原さん以上の盛り上がりを見せる面々に、この話題の主はにまにまと口の端を吊り上げる。掴みは上々といったところか、話はこれで終わらないらしい。ふとオレと目が合うと、「花宮は知ってたか?」と得意げな色を隠そうともせずに問うてきた。
「まあ、噂にはなってたかな」
 ここで知らないと話を合わせてやっても良かったが、あまりにも緩みきった面が愉快だったので正直に応えてやった。やつは期待ハズレそうに視線を逸らしたが、「同じ部活だもんな」と自分を慰めるように小さく零すだけだった。
「ていうか、花宮ってと仲良かったんじゃなかったっけ」
 今思い出した、というように隣に座っていたサッカー部のひとりがオレに視線を寄越す。こいつは去年から同じクラスだった。入学当初のオレ達を知っているせいだろう。当時はまだ、はオレにべったりくっついていた。
 サッカー部のひとりに続いて他の面々も次々とオレに目を向ける。また話題の中心から弾き飛ばされたひとりは、不服そうに口を歪めた。
 の名が出た以上、こうなることは予想していた。期待の眼差しをやんわりと躱して、用意していた答えを口にする。
「仲良いってわけじゃないけど。家が隣だから、小さい頃からしってるってだけ」
 使い古した文句だった。他の人間よりも長く、あいつを識っている、ただそれだけだと。なんてことはない。だが、このなんてことない時間の有利を、喉から手が出るほどに欲している人間がそこかしこいることも、オレは知っている。その人間がこの輪の中にいるかまでは、生憎と把握していないし興味もないが。欲したところで得られるものではない。無いもの強請りに歯ぎしりする無様な面なら、多少の興味は惹かれるが。
「じゃあさ、のカレシの話とかも聞くわけ」
 歪めたままの口で、話題を奪われたそいつが不服もあらわにぼそりと漏らす。残念なことに、今回はやつの期待通りの回答しか持ち合わせていなかったので、さっさと主導権を返した。
「いや。さっきも言ったろ、仲が良いわけじゃないって。そんな踏み込んだ話、したことねえよ。中学入ったあたりから疎遠になったしな」
 オレから提供される情報は何もないことがわかると、そいつは目に見えて元気を取り戻す。単純すぎて笑う気にもならなかった。
 散々こいつが引っ張った話題がどれだけ愉快なのかは知らないが、作り笑いも放棄したくなるほどに無価値な話ではないことを願う他ない。先月こいつが持ってきたに関する話題は、オレが未就学児の頃に識っていた実に下らない話題だった。
 果たして。
「これは昨日先輩に聞いたんだけど」
 昨日、と情報の新しさを強調するように繰り返し、そいつは品のない笑みをぶら下げる。
ってさ、……ヒショジョなんだって」

 投げ込まれたのは、作り笑いも放棄したくなるほど、酷い話だった。



+   +   +




 今交際しているバスケ部の彼氏が二人目で、処女を捧げたのはそれより前に付き合った男だと、そいつは続けた。最初の彼氏について聞き出そうとしていた奴がいたようだが、それ以上の話は知らないらしく、ひとしきり話が落ち着いたところで下校することになった。
 頼んだらヤらせてくれんのかな、違う誰かが呟くように言った声が、じっとりと肌に張り付いた。

 気味が、悪い。
 近頃ずっと感じていた不快感が、とうとう正体を現したかのような感覚だった。
 昨日部活で見た。一昨日廊下ですれ違った。先週マンションのエレベーターで顔を合わせた。二週間前、ひと月前、ふた月前、あいつの誕生日、それよりももっと前。脳裏に焼き付くあいつの姿を遡って遡って、いつまで遡ったら、この気味の悪さは消えるのか。いつまで。いつから。あいつは。
 考えるだけで吐き気がした。当然のようにあいつの手を握っていた幼い日のことを、昨日のことのように思い返せるのに。顔も名前も知らない他人なんかに、オレが触れたことのない領域を、あいつが許したのだと思うと、胃の中身を全てぶち撒けたって足りなかった。

 気持ち悪い。
 その日の晩、珍しく鮮明な夢を見た。中身は思い返したくない。ひたすら不愉快で気持ちが悪かった。翌朝、おそらく初めて朝から風呂に入った。頭から熱い湯を被りながら、いつかに体育教師が間延びした声で読み上げていた保健体育の教科書の一節を思い出した。
 夢の中、女の顔で笑ったあいつの唇が、白く曇る鏡に映った気がした。



+   +   +




 週末。土日を挟んだらすぐにテスト期間に入る。放課後に校内に残る生徒は少ない。予想外に長引いてしまった教師との立ち話から解放され、教室に戻ると、もう誰も残ってはいなかった。駆け足で沈むようになった太陽は半分ほど姿を隠し、校舎内をぼんやりと橙色に染めている。直に、完全に日が暮れてしまうだろう。そうすれば一気に空気が冷え込んでくる。寒いのは好きではない。さっさと帰り支度をしようと鞄を開けたところで、廊下から聞こえていた小さな足音がこの教室の前で静かに止まった。
「……まこと、」
 ぽつりと水が滴るように、小石が転がり落ちるように。自然とこぼれたような調子で、その名前は呼ばれた。目を向けなくても、教室の出入口で立ち止まったのが誰なのか判った。
 オレがあいつを他人行儀で呼ぶようになるのと同時に、オレの名前はあいつの口の中から居場所を失っていった。先に距離を取ったのがどちらであったのか覚えていないのに、今、あいつが当然のように名前を呼ぶから、オレからあいつを遠ざけたような気がしてくる。
 どちらが先だったかなんて、もうどうだっていいことだが。
「なに」
 鞄の中にノートや筆箱を詰め込みながら、短く応じる。視界に入れることはしたくなかった。もうすでに吐き気が足元まで忍び寄っている。手元だけ見詰めていた。
「……べつに」
 声と一緒に足音が近付く。ぱたぱたと上履きが固い床にぶつかる音が、教室の中でいやに響いた。
 用もないのに何しに来やがった。お前の教室は隣だろうが。当たり前に返していたはずの言葉たちが、喉に絡まって出てこない。無理に引きずり出せば胃の中身まで一緒に出てきてしまいそうだった。
 足音が止まった。目の前に影が差す。オレの鞄の上に、あいつの影が横たわる。男には無い凹凸、曲線、やわらかなシルエット。
 細い手が、視界に、入って、──
「……触んなよ」
 殆ど反射で叩き落としていた。一瞬だけ触れたあいつの手が、冷たかったのか熱かったのかわからない。顔をあげる。予想した場所よりも少し低い位置に、あいつの顔があった。いつの間にか、差が開いていた。そんなことにも気付かないほど、遠のいていた。
「急に、なに、酷くない?」
 あいつは叩き落とされた手を胸の前で握りしめて、困惑を隠すような半笑いを浮かべていた。器用な顔を、するようになった。いびつな形のまま固まった表情が、やっぱり気持ち悪かった。
「気持ち悪い」
 吐き出そうと思って吐き出したわけではなかった。あいつの手を叩き落としたのと同じ。不快感が背筋を駆け上がって、そのまま喉から飛び出した。反射的。左手の先が冷たい。さっきあいつに触れた場所。汚い。汚らしい。誰が触ったかわからないあいつの肌に、触れてしまったことが気持ち悪くてしょうがない。あらゆる不快を示す言葉を並べても、この不快感を示すには足りないと思えた。
「気持ち悪いって、どうして?」
 いびつな表情のままのあいつは、妙に明るい声を出す。全部がちぐはぐだ。気持ち悪い。気味が悪い。耳を塞いでしまいたいのに、冷えた手は氷のように動かない。
「煩え、喋んな、汚えんだよ」
「あたしの、何が汚いの」
 ぱちりと瞬いて、あいつはオレを真っ直ぐに見つめる。窓から差し込む西日が映って、あいつの瞳は燃えるように輝いて見えた。ぎらぎらと熱をもち、オレにまでその熱を移そうとする。
「ああ、そっか」
 溜息のような声が、あいつの口から零れ落ちる。瞳と同じ熱を孕んでいた。
「センパイが仲良くしてる野球部の後輩って、真と同じクラスだっけ」
 熱い声が、肌の上を這いずりまわるように絡みつく。センパイ。オレはその男の、顔も名前も知らない。
 あいつが体を近付ける。甘ったるい匂いがした。知らない匂いだった。後ろの机に足が当たる。がたん、と机が音を立てる。そのまま机の上に尻をついた。あいつは構わずさらに身体を寄せる。匂いが強くなる。
「その子から、聞いたの?」
 疑問の形を取りながら、答えを求めるものではなかった。机上に腰掛けた状態のオレの太ももに片手を載せ、両足の間に身体を滑り込ませる。もう片方の手は、机に付いたオレの手を柔らかく握った。氷みたいに冷たかった手が、あいつの熱でじりじりと焦がされていく。汗で手が滑りそうになる。下から覗き込むように、あいつが見上げていた。オレの身体が影になって、あいつの瞳にはもう燃えるような熱は無かった。代わりに、ひたすら冷たい色がこちらをじっとりと見詰めていた。
「男の子って、頭も口も軽いんだね。あーあ、嫌になる」
 唇が笑みの形を作っているのに、溢れる声は瞳と同じく冷えていた。夢に見た顔が、目の前にあった。女の顔で、が笑っている。
「真もさぁ、あたしとヤりたい?」
「……ふざけんな」
 叩き付けるように言ったはずなのに、低く掠れてまともな声にならなかった。変声期。男性の方が変化は顕著であり、あまり目立たないが女性にも起こる。また体育教師の声が教科書を読み上げ、すぐに消えていく。
「そうだよね、あたしのこと汚いって言うんだもんね」
 ふふ、と唇をゆるめて笑う。こんな笑い方をするを、見たことがなかった。こんな声で喋るを、見たことが、無かった。甘い匂いが、近くなる。顔が寄せられたのだと気付いた時には、柔らかな熱が唇に押し当てられていた。つるりと白い瞼が、ぼやけて見えた。
 熱はすぐに離れた。一緒に身体も離れていった。はすぐに背を向けて数歩遠ざかり、ぴたりと足を止める。
「真も汚くなっちゃったね。ゴシューショーサマ」
 嘲笑じみた声で言い捨てると、は教室を出て行った。振り返らなかった。何もなかったかのように、平然と背を伸ばして歩き去った。
「クソ……っ」
 ひたすらな嫌悪感。吐き気。脳味噌を掻き混ぜられるようなおぞましさ。胃の中身を全てぶち撒けたって、あらゆる言葉を並べたって、到底足りるものではない。気持ちが悪い。
「きったねえ」
 唇から腕から、あいつが触れた場所全てを掻きむしりたいのに、汗ばんだ指先は自分の唇をそっと撫でて、まだ残る熱を閉じ込めるように握りしめていた。



知らない唇




Up:2017.06.17
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