筆まめな彼は週に一度、必ず手紙を送ってくれた。電子メールは毎日。義務的で、業務的で、ただ淡々とその日にあったことが綴られているだけのもの。ほとんど生存報告のようなもので、一言で済まされている日もあった。それでも私はうれしかったし、すべて保護をかけてとっておいている。
電話は、一度だけきた。二ヶ月前の私の誕生日だった。
何か特別なことを話したわけではなかったし、剣術に造詣の深くない私にとって、幻騎士が語ることは未知の言語に等しい。おそらく幻騎士もそれはわかっていて、ただ今の生活は充実しているという事実のみを私に告げた。
それから、最後に。「誕生日おめでとう」と、そっけなく呟いて、電話は切れた。
幻騎士から電話がかかってきたというその事実にひどく動揺していた私は、いつの間にか端末の録音ボタンを押していたようで、幻騎士のそのセリフは綺麗に録音されていた。擦り切れるほどに聞き返し、今では音源を聞かなくとも耳のうちに響くほどに、私の体に染み着いた。
手紙も、メールも、ぱたりと止んで、ひと月。野猿は「幻騎士のことだからきっと心配ないよ」と笑顔で頷いたし、太猿も「あいつはこのファミリーで一番強い男だ。心配するな」と私の髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。ガンマにいたっては「向こうでお前よりイイ女を見つけたのかもな」と手をひらひら振って見せた。直後にガンマに拳骨を落としたボスは「少し心配だし、探してみましょう」と言ってくれた。
便りがないのは心配だったし、不安でもあった。ボスの好意に甘えたい気持ちもあったし、ファミリーとしても幻騎士の動向を調べる必要はおそらくあるはずだった。
けれど、ボスが直々に幻騎士の捜索に乗り出してしまうのは、それだけ幻騎士が非常事態であると言っているような気がして。もう少し待ちましょう、そう告げて、私はひとり部屋に駆け戻った。
ベッドに寝ころんで、端末のスイッチを入れる。ロックナンバーはありがちだけど幻騎士の誕生日四桁、レコーダーアプリを開いて一番上の履歴を再生する。
──俺だ。こちらは夜だが……イタリアは夕方だったか。……何? まだ昼?……そうか、それはすまなかったな……その、今、平気か。そうか。いいや、特に、用事という用事では……。
いつも固い幻騎士だけれど、この幻騎士はいつも以上に固かった気がする。もうこの声ばかりを聞いているので、はやくちゃんと幻騎士の声を聴かないと、幻騎士のすべての記憶がこの固い声に塗りつぶされてしまいそうだった。
きっと、この幻騎士は緊張している。慣れないことをして、居心地が悪いのだ。返す私の声も、どこか固かった。いきなり電話なんて、掛けてくるから。
あの時も私、こうやってひとり、ベッドに転がっていた。昼食を終えて、非番にかまけてだらだらと、幻騎士からきた手紙を読み返しながら。へ、と記された封筒を撫でて、ひとりにやけていた。そこに電話が来たのだから、びっくりしてしまうのもしょうがない。
──手紙は、きちんと届いているか。ああ、ちゃんと食べてる。食は体を作る、資本だ。土台が緩んでいてはその上に何を乗せたところで意味はないからな。お前はどうなんだ、今は昼だと言っていたが。そうか。今日は非番か。じゃあ、ボスが作ったのか?……お前の、好物だったな、それは。
幻騎士が私の好物を覚えていたなんて。それも、驚いた。そんな素振り、見せたことはなかったのに。彼が剣術と幻術以外に興味を示すところを、私は見たことがなかったから。
──あれがメニューにあがるとき、お前はいつも嬉しそうにしていただろう。あれだけわかりやすければ、誰だって気付く。……思っていることがすぐに顔に出てしまうのはよくないと思うぞ、敵に気取られ不覚を取りやすい。……心配? まあ、な。ファミリーなのだ、それくらいはする。俺たちの使命は、ボスを守ることだ。くだらぬ原因で死なれては困るからな。ガンマからもよくよく言われていることだと思うが。
それから、しばらく幻騎士は口を噤んでしまった。私もなんと続けて良いやらわからずに、ずっと端末を握りしめたままで。電話の向こう側、幻騎士がいる世界の音を聞いていた。騒々しく、荒々しく、研ぎ澄まされた世界を。私たちのアジトにいるだけでは、彼が手に掴めない何かを、与えてくれる世界を。
──その、今日、だが。まだ昼だと言っていたが、土曜日、だな。いや、深い意味は、ない。ただ、俺の方が早いのか、お前の方が早いのか、どっちなのだろうと思ってな。それだけだ。
こちらの国はイタリアより気温が低い、とか、今まで会ったことのないスタイルの剣士がいる、とか。修業の話をぽつりぽつりと聞いて。
そうして、確か、ボスが私を呼びに来たんだ。暇なら掃除を手伝えとかなんとか言って。私は受話器を少し耳から外して、はぁい、と答えて。電話をもう一度耳に当てて。
──誕生日、おめでとう。また明日、連絡を入れる。
吐息一つ漏らす間もなく、電話はぷつりと切れてしまった。幻聴かと耳を疑って、何も音を発しなくなった端末を見つめていた。落ちていた画面の電源を入れて、レコーダーが作動していることに気付いて。もう一度再生して、何度も再生して、幻騎士の声を聴いた。繰り返し、繰り返し。幻騎士の声が、鼓膜に刻み込まれるまで。
ピピ、と再生終了の音が流れる。画面は録音リストに戻っていた。
重たく息を吐き出して、携帯画面のスイッチを落とす。何度聞いても飽きることはなかった、けれど、これだけでは足りなかった。メールも手紙も、暗記してしまうほどに読み返した。飽きることはない、しかし。いっそただの空メールだって構わない、幻騎士が無事でいるという知らせが欲しい。手元にある手紙も、携帯に残されたメールも電話も、当たり前のことだが送られたその時の幻騎士しか教えてくれない。今の幻騎士がどうしているかは、幻騎士にしかわからないのだ。彼しか知り得ない彼の今が、欲しかった。
私は彼のボスではないし、幻騎士と付き合っているわけでも結婚をしているわけでもない。彼とのつながりはジッリョネロの構成員という、大きな輪の中にともに存在するというだけだ。こうして定期的に私のところに連絡がくるのは、ひとえに昔のよしみであるところが大きい。私と幻騎士は親の代からジッリョネロに所属しており、小さい頃は年が近いからとよくひとまとめにして遊ばされていたし、一定の年齢に達してからは新人同士で組まされて同じ任務に遣わされた。ここ数年は炎属性の相性で組まされることも多く、幻騎士のサポートとして都合が良かったのだ。
自分で言っていても悲しくなるが、幻騎士と私の間には、ガンマや太猿、野猿が邪推しているような色っぽい関係は全くと言っていいほどない。
だからこそ、私に幻騎士を縛る権利はなく、まめな報告はボスからの命令というわけでもないため、彼からの連絡を催促する権利も義務もなかった。だから私には、ただ受け取ることしかできないのだ。誰よりも早く、誰よりも多く、幻騎士が与える情報を、受信することしか。彼が私にくれるものを、手に握りしめて大切にしまっておくことしか。
午前中で仕事は終えてしまった。どうせやることもないが、玄関で手紙を待っているとまたガンマたちに冷やかされるし、きっとボスには心配をかけてしまう。大人しく、この部屋で過ごすのが賢明だろう。
落としたままの暗い画面をじっと見つめる。この小さな機械が繋ぐ先で、幻騎士はどうしているのだろうか。元気にしているのだろうか、怪我はないだろうか、修業はうまくいっているだろうか。もし神様がいるのなら、どうか、彼を守ってほしい。多くの人間の命を奪うことを常とするようなマフィアが願うことではないかもしれない。けれど、そういったものにでも縋らないと、気持ちを保てそうになかった。
真っ暗な画面に映り込む、情けない顔の私と目が合う。画面の中の私は重苦しく息を吐いていた。もう一度溜息をついて、画面を伏せる。端末を枕の上の方に押しやって、ごろりと仰向けに寝返りを打った。
ぐるぐると考え続けていると、どうも悪い想像ばかりしてしまいそうだ。気分転換にガンマにでも稽古を付けてもらおうか。ガンマと同じく中距離戦闘型の私は、昔から彼にお世話になっていた。今日はガンマも午後から暇だと言っていたし、多分引き受けてくれるだろう。
勢いをつけてベッドから跳ね起きる。そのとき、シーツを伝って何かが震えているのを感じた。
一瞬息が止まった。すぐさま我に返り端末に飛びついた、ディスプレイの表示、は、
「げんきし、……っ」
待ち焦がれた彼からの着信。動揺のあまり携帯を取り落としそうになって、深呼吸、ゆっくり画面をタップして応答に切り替える。
「も……もしもしっ」
声が震えた。二ヶ月ぶりに幻騎士の声を聞く。あの電話の音声ばかり聞いていた私の耳が、ようやく新しい幻騎士の声を得るのだ。今の幻騎士の声を鼓膜に刻むのだ。今度は故意に録音ボタンを押していた、どんな些細な報告でさえ、幻騎士のものであれば残しておきたかった。
「こちらは赤十字センターのものです」
「……は?」
幻騎士とは似ても似つかない、柔らかい女性の声だった。ドイツ訛りの英語。女性は一つ咳払いをして言葉を続けた。
「ご家族に連絡をと思ったのですが、持ち物が少なく身元の確認が取れなかったためこちらに連絡をさせていただきました」
「はぁ……」
その声は、私が幻騎士の家族であるか問い、それに頷くと、彼が滞在している国の感染症に侵されてしまったこと、そしてその病がワクチンのない不治の病であることを淡々と告げた。
端末を耳に押し当てた状態のまま、身動きも出来なかった。
どくどくと心臓がすごいスピードで胸をうち叩いている。初めての任務の時よりも、初めて実戦に出た時よりも、初めて人間を自分の銃で打ち抜いた時よりも、体が震えて止まらなかった。かちかちと歯が鳴る。息が苦しくて、思わずネクタイを緩めた。
幻騎士が、不治の、病。ワクチンがなくて、家族に、連絡。
その言葉だけがぐるぐると頭を巡った。黙りこくったままの私に、女性の声が少しだけ気遣わしげに変わる。
空気感染により広まる病のため、亡くなった患者はすべて現地で火葬されてしまうこと。幻騎士の感染レベルは二日目ですでにレベル5に達しており、もう手の施しようがないこと。遺骨の回収のみ許可されているため、近いうちに足を運んで欲しいこと。
「失礼ですが、ご家族のお住まいはどちらに?」
「イタリア、です」
かなり遠方まで旅行されていたのですね、返された声に機械的に相槌をうつ。
「あの、彼は、まだ……生きて、いるんですよね」
「……ええ。ですがもう……」
もう先の望みはないのだと、女性は滲ませて口を噤んだ。
「彼、何か、言ってませんでしたか」
「搬送されたときにはすでに話せる状態ではありませんでしたから……。ただ、ずっと泣き通しでした」
「泣いてた?」
「ええ」
己にも他人にも厳しかった。ファミリーのために、自分のために、ひたすら剣を磨いて、真っ直ぐ。泣き言なんて聞いたことがなかった。稽古のときも、いつも無表情のまま振るって、負けても勝っても、幻騎士は幻騎士だった。それが、その幻騎士が。病に怯えて、泣いていたというのか。死に怯えて、泣いていたというのか。
たった、ひとりで。
「こちらの住所をお伝えしますので、ご家族のお名前と患者さんのお名前を──……」
私がそれに、きちんと答えたのかどうか、私は覚えていなかった。気付いたら電話は切れていて、ベッドから転げ落ちていた。それでも起き上がることも出来ず、冷たく硬い床に頬をつけていた。
たったひとり。幻騎士は治る見込みのない病に身を侵され、誰も自分が知るもののいない土地で、命が削られるままにいるのだ。
「げんきし、」
口を開いた拍子に、流れていた涙が入り込んだ。塩辛いみずが舌にまとわりつく。幻騎士は、無菌室というつめたい世界に閉じ込められた幻騎士は、自分の涙の味を知っているだろうか?
「あいに、いかなきゃ」
幻騎士が、つめたい世界に溶けてしまう前に。会いに行かなくちゃ。そうして、幻騎士を救い出すのだ。つめたい世界から。私たち、ファミリーのもとへ。
ああでも、体が動かない。どうしてだろう? 腕に、足に、力が入らない。そういえば私、今日、なにか食べたっけ。昨日、なにか、口に入れたっけ。
「、あんた最近ろくに食べてないってガンマが……、っ!」
ドアの開く音と、ボスの声。途中でぴたりと止まって、それからばたばたと足音。ごろんと頭を転がした。カラカラと脳みそが音を立てた気がした。きっと、泣きすぎて脳が干からびてしまったのだ。冷たい冷たい水が、ぼたぼたと床におちていく。
ゆるりと瞬きをして、ぼんやりしていた世界が少しだけましになる。血相を変えたボスの顔がみえた。
「どうしたの、何があったの!」
「わたし、幻騎士のところ、に、いかなくちゃ」
「こんな体で何言ってるのよ!」
頭の下に手を入れて身体を起こし、ボスが私の顔を覗き込む。頬に触れるボスの手が、あたたかい。
幻騎士の傍には、彼の涙を拭ってくれるひとはいるだろうか。彼の涙で冷え切った頬を、あたためてくれる人がいるだろうか。
「幻騎士のところに、いかなきゃ」
「場所がわかったの?」
「すぐ、いかないと、だからボス、」
「落ち着きなさい、何があったの」
「早くしないともう会えないの!!」
幻騎士は今こうしているうちにもぼろぼろと崩れていってしまうのだ。この世から、幻のように消えていってしまうのだ。こんなところで這いつくばっている場合じゃない。だって幻騎士のいる世界は、イタリアよりもはやく夜がくる。夜が来る前に。幻騎士を闇が隠してしまう前に、彼のところに行かなくちゃいけない。彼は今、ひとりだから。
「ひとりなの、だから私がいかないと!! だからボス……っ!」
振り払い、起き上がろうとしたはずみで、握りしめていた携帯が滑り落ちる。ああまだ、赤いランプがついている。録音したままだ、あの、幻騎士ではない誰かの声を。つめたい世界の、誰かの声。
どくどくと、また心臓が激しく脈打ち出す。はやく、はやく行かないといけないのに。はやくしないと止まってしまうのに、彼の心臓が!
「誰か来て──ガンマ! が!」
ボスの声が耳の内側で響く。私の心臓の音と、ドイツ訛りの英語、幻騎士の固い声。全てが渦を巻いて私を飲み込んでいく。
神様、かみさま、どうかかれのそばに。
できるならこのまま、わたしをかれのそばにつれていってください。
誰かの神が死んだ
Up:2017.06.17
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